2010年10月7日木曜日

厭離穢土 欣求浄土 

私はこの言葉が一番好きです。どの言葉よりも好きなのです
分かりやすい、そして本当の気持ちはここなのです。

穢土とは今生きている世界を含めて、過去世、来世も含め全ての
現世界を指し示します。

欣求浄土 これは仏の国を願い求めよ

厭離とは 厭い離れよ

即ち三世因果の道理に束縛される世界、汚い世界から
厭だと思え、そして離れよ

仏の国をねがい求めよ

そのために念仏があるのです 南無阿弥陀仏

業繋とあります これは業に繋がれている

業とは三世因果のことを意味しています
繋とはつなぐと読みます

三世因果の世界に束縛され、汚いからだと魂を持ち
苦界から苦界へ今の人の世界も仏説では苦だと
とかれてはいませんか

私は苦界から出すという念仏の教えは
今は悪因をつくる世界でまた苦を受け
死ねばまたその悪因により苦を受け
そしてその果によりまた悪因をつくる

無限に循環して終わることがなく
より苦しいかそれよりも苦しくないかを
繰り返す

それが厭なのです、そして私がつくった悪因は
全て滅ぼしてくれるのですから
その因を消す力のある阿弥陀如来に任せる

この世界にいるかぎりは誰しもが因果の束縛から
逃れることはできないのです

自性を変えることなど出来ません
悪因をもっているから死後を怖がらなくては
なりません

苦因は苦果を感じ 楽因は楽果を感ず

この世界に生きる生き物すべてが因果に束縛されます
縁ある衆生で親でないものはないと
ある仏説には説かれているほどなのです

私達は全て縁がある生き物の命を奪っていますが
実は親兄弟であったとなるのかも知れません

罪を犯したらその報いを受ける
それは生きている時の罪と罰の話だけではなく

因果とはつながっているゆえに避けられないものです
悪果を受ける因は悪果があるゆえに生れるのです

その因果に束縛され悪因をつくることと
悪の本性を持つ本能的な魂が生み出してゆく
終わりのない因
此の世界は汚く、体も汚れていきます

後生の一大事とは自分の過去世から作りに作った
悪業であることははっきりしていることです

そして因果の世界に生きているわけですから
逃れる手段はないわけです


その逃げられないわたしを哀れんで修行をし
苦因を消すためにいくら苦しんでも後悔はしない
耐え忍ぶと

誓いがあります

そして仏にしてみせる

そのためにはいくら苦しんでもかまわない

その御心が南無阿弥陀仏である

願作仏心 度衆生心 これは大菩提心なり

その御心に任せるだけであります

南無阿弥陀仏

2010年10月4日月曜日

阿弥陀如来の行について2

 ここで話がもどりますが、己のことが分かるということですが
ひとつの文字がそれを教えてくれます。
悟るです、此の文字は吾という文字に心がついています。
己の心が分かるということは悟りなのです
これを一人で成し遂げたのは釈迦如来ただ一人です。

つまるところ仏教の出発点は悟りを開き成仏するですから
己の心を知り、修因感果の理といいますか感覚により
楽因を積み、悪因を消す修行を行い、自性を変え
仏の世界に生れる道を指し示します
これを仏道修行といい、厳しく欲望と愛欲を節制し
その目的は自性を変えることにあります

それが出来たならば成仏の因があと何千憶劫年かかろうとも
ひとつの行でさえ積み重ねていって己の自性を変え
成仏するという事になります

しかし、私達は残念ながら、自性をしる事も出来ませんし
行を行う前提にも立てないのです

悪性さらにやめがたし、一行も及びがたき身なれれば
地獄は一定住みかぞかし

これは親鸞聖人の言葉ですがかの高僧は己の自性を知らされ
そして己の能力を感じ、その結果を導かれました

此の一文の中には確かに仏道修行をしようとする人の前提が
あります。まず自性を知る、そして行をする。

しかし自性を変えることはできない、日々募る妄念
悪感情、悪魂を変えられない、そしてそれを変える行をすることも
できないとなれば、自分のした行いと自分の魂の導く因縁によって
行く先は地獄が一番似合っていると親鸞聖人は言われました

ここで自性を知ることは即ち自らの運命をしることになることが
はっきりと述べられているところが良いと私は思います

唯知作悪 悪魂は悪を作ることは教えられなくとも知っています
教えて貰わずともおいしいものを選びます
教えてもらわなくても自らの快楽を選びますね

自ら苦痛を肩代わりして誰かを救済し、救われれば安堵するというよう
な高級な人は今は見当たりません。自助努力を推進しますが
自らは肩代わりできる人は存在しません。
できるのならば、飢えた人の代わりにその場所へ行き
自分が代わりに飢えて、この食料豊かな場所につれてくればよいのです

それでも善とはなりません殺生をすればその報いを受けるのですからね

しかしこれはひとつのたとえです。自らほかの苦しみを肩代わりすることは
その行いによる結果を結ぶことでしょう

そういったことを悪感情なしで常にできるような心を持たなくてはならない
そういう姿になれるのでしょうか


ここで最後に結びます、阿弥陀如来は私の因果を引き受けるために
代わりに苦しみを肩代わりしてそして私の苦因を全て消してくれる


それゆえ苦因が消えます その行を信じる 任せるだけなのです

南無阿弥陀仏 

阿弥陀如来の行について

 阿弥陀如来の行ということについて考えてみます。
南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏をたのめという意味ですから
全てしてもらうことを指します。
そして私が何もしなくても、念仏の状態が続くことを
憶念の信と表現されています。 憶という文字は心と意と
記憶の憶ですね、念とは念仏のことですから、念仏を心に憶える
ことが常にしてですから、途絶えることがない状態です

これらを自らの力で行うことは出来ません
他力に委ねると口ではいいますが、本当にしてもらっている状態
ならば、その姿になります

憶念の信常にして仏恩報謝の想いあり 南無阿弥陀仏

この心はいつも念仏の状態にしてもらっていることが分かる
そしてそのことに感謝する気持ちが起こることを指します

よく機法一体の二種深信とありますが、この機の深信と法の深信は
同じであるといわれます。私達一切衆生の性質をごらんになった
阿弥陀如来が全ての衆生を救済すると誓われたのが
南無阿弥陀仏の誓願なのです。

全ての衆生ですから、命がある者を全て救うという事です
仏典に鳥のさえずる声を聞いて、その声は親の声かもしらんと
感じることがあるとあります。縁を結んでいるのだから
多生の縁としてつながりがあるという事です

こういったことからも仏典では全ての命は全て平等なのです
人があえて、動物、植物、虫ほか等と区別しているに過ぎません

六道の中には畜生道とあります。生き物としては違う世界で産まれた
だけで同じ魂をもっていると説かれています。
衆生が地獄に堕ちているところから産まれ、そして地獄に還るという
繰り返しであるという言い方を否定する人もいますが
その根拠を知りたいものです。
明確な根拠とは何か、私が聞きましたのは善因善果、悪因悪果
楽因楽果、苦因苦果 三世因果の道理、修因感果 自性 魂

如来の行 解脱 輪廻 厭離穢土 欣求浄土 

私が助けてほしいと想ったその時にたしかに弥陀が救ってくれた
それを感じました。今生きている世界は苦因をつくる世界
そして死後は苦因を受ける世界であると。

輪廻を繰り返し、いままでどれくらいの屍を積み上げてきたことか
その高さは計り知れないものになるそうです

私はこの世界三世全てが苦因苦果の因果の世界である限り
自ら修行して自らを済度することは不可能であると想います

阿弥陀如来は私の過去世の苦因を全て消し去り、私を苦因と苦果
の世界から仏の世界へと導き、仏にしてくれるのです。

自らが悪の塊である魂の持ち主である限り、その作るタネは
悪い実しか結びません。しかしながらこの弥陀の話の要点は
因果深信とあります。これは仏の例えでありまして
種を植えれば実がなるだろう。とあります、これはその環境の中で
あれば、自然と実が生る事をあらわしています

私が何か想うなり想わなくとも私の魂の行った因は私のわからない
因果の環境の中で自然と来世での果を招きます。
そしてそのことを因となり果となりと
なにかをしても因があり、なにもしなくても因があります
時間とともにしてもしなくても因縁を結びます
悪性ゆえにいつも因は悪果を結ぶものを作るのです

悪果はまたそれを精算したあとは悪因をつくる因になります
それが今現在の姿であるというわけです
私たちが悪因をつくるのは悪果がある証であるとはよく言われますが
その悪果がいずれどうなるかは今の行動につながります
悪果は悪因から生まれその因を消すのではありませんで
次に悪因を作る種となるのです。

私達の罪はそうやって作られてゆきます。悪性がやめられれば
その悪因を作る因を消し、善因を積めばよいのですが
自動的に生来もっている行動が悪なのです
食事、喜怒哀楽、ほか諸々です。
偽善だけれどすればよいとはよく言いますが
私は偽善だと認識してそれでも人助けを行うことはいずれ
己に返ってくるので、結局自己のためとなります
己の心を偽ってよいことをするのではなくて
自らの為になるという気持ちで行うのは良いと思います

しかし、それらの善でありましても厳然たる因果の道理から
見ますと一向に善とは生りえません

悪感情をもってはいけません。偽ってはいけません
この二つはどうしても解決できません
ボランティアの人も感謝されればやりがいがあるとおもいます
しかし不足を言われれば腹が立つでしょう。
これだけで悪因と生ってしまいます

自らの魂といいますか自性を変えなければその因は変わりません
それで初めて修因感果となります

つまり善をおこなう為には自らの自性を変えなくてはならない
己の自性さえ分からない者がどうやってそれを変えられるのか
ここで非常に難しい能力的な問題が出てきます

2010年9月28日火曜日

仏説について語ること 信心について思う事

 今日はある宗教団体の方とご縁がよくありまして、そして真宗の勧学
また特定の宗教家の意見など、感じる点について整理してみたくなりました

機法一体 修因感果 機の深信 法の深信 堕地獄のこと 救済のこと

念仏について 行信 三願 誓願不思議 無常感 罪悪感

輪廻 三世因果の道理 死生感 一切衆生 魂 業縁  不可思議

善因善果 悪因悪果  自性 正義 邪義 他力 不可説
 
意見の差をを見ます まず機法という概念です。機とは己のことです
法とは本願のことです。 行信これともに他力というのが私の主張です

次には堕地獄のこと です これは語りつくせませんし、またほんの少し
此の話題に触れますと皆さん嫌な顔をします。桃尻というわけです

しかし某宗教ではこれを教義に組み入れています。
地獄秘事というわけでしょうか、私も地獄に堕ちるという実感があり、
それを感果する故に念仏をし救済を求める経緯がありましたので
この堕地獄のことは非常に大切な部分であります。

機法一体とは単純に救って欲しいと成る事と、救いたいという仏の願いが
一体であるという深い信が如来より賜るという事を表しているのです

次に無常感と罪悪感の話ですがこれも先ほどの話とつながっておりまして
無常とはいつ死んでもおかしくないという私たちの現実をいう事です
そして悪因や宿業を抱えた状態ならば、感果によって空恐ろしくなるのです
誰かに驚かされて、例えば、お前は阿鼻地獄に堕ちるぞと脅されて感果
があるのではありませんで、自らの持っている因、と宿業により、来世で
受ける果。これは非常に来世のことを分かる人はいませんので
オカルト的になるのですけれども、なにか分からないが非常に恐ろしい
その原因は何かそれは自らの自性が産み、抱えている爆弾を抱えているから

これをなくすのは阿弥陀如来の行による成果、本願です。
因果の道理を三世で説かれるのは私とほかの衆生についての話とつながります
基本的な話としまして、霊魂であるとか魂であるものの存在を肯定しています
衆生には魂があり、それは全て等しいというのが仏説です。

即ち因縁によりまして、猫になったり、爬虫類や鳥になったり、バクテリアや
微生物、植物とありとあらゆる生命体は私と同じ魂をもっています。

そして、この過去世においてありとあらゆる生物に生まれ変わり、行き違いを
繰り返し偶然の因縁により、人身を受けたとあります

人身受けがたし です。

そして、人となって生まれ、何をしているか、否してゆかなければならないか
これが運命であり、業因縁であります。うのけにいる塵さえも己の因縁である
と親鸞聖人が言われた所以だと思います。ご縁についての話でありますが
なにが起こるのも皆ご縁である。 袖摺りあうのも多生の縁と

この諺は袖が触れ合うのも多生ですからたくさん生まれ変わった縁ですよ
縁があるからそでがすりあっていて、縁のある証拠ですよという意味です
 私はそういう世界で生きているのです。

避けられるのならば悪因を作る原因をさけ、
善因をつくれば、善果をうけます
しかし、無数の殺生の因を持ち、
それに見合う例えば苦しみを返すような慈愛の
性質は持ち合わせてはいません。自らの命を捧げて、ほかの魂の持ち主に
その欲を満たす為に自らの体を捧げる精神を魂を持っていません

むしろ殺されれば、必ずやりかえす。仇を討ちたいと思うのが本音です
私と同じ魂をほかの衆生ももっているということです。
仇を討ちたがっている魂が無数に存在し、
お互いに報復しあうと経典にあります

それを因といい、死ねば果を受けるとあります。
このような一部分でさえ恐ろしい
しかしながら、ここでまだ踏ん張る心があります。
私は良い部分もあるし
良い事もできると、しかしながら
、ひとつの殺業や殺因でさえ解決できません

そうなれば結果は明白でしょう。善因善果、
悪因悪果の理により次の生で
受けるのは苦か楽か。

いえ私はそれを繰り返してきたのです、
殺し、殺されというより、苦因と苦果の
繰り返し、今の世界は苦因を造る世界です、死ねば苦果を受ける。
そしてまた苦果により苦因をつくる。 
これを痛ましいというよりも常没と
善導大師は説かれています。常没であり輪廻流転を繰り返す

浮かび上がることのない身であると、
そのそもそもの原因はどこにあるか
それは魂の性質にあります。己の魂が良いものであるならばその果は良い
しかし、己の魂は悪いものであるならその果は悪いと成ります

果が悪いのは魂が悪いからです。 
その性質が悪いので悪因をつくってしまいます
悪因をつくる自性 新鮮なとはいい言葉です これは若くてうまそうだ

こういえば非常に恐ろしく聞こえますが
私のとっている行動を主客を変えてみます
例えばかに鍋を考えて見ます。 鍋に放り込まれくるしい 
魚や魚介類は海水が
平均ですので、普通の水温でも人の熱湯に感じるそうです。
苦しんで助けてと思っているか、うらんでにらみつけているか分かりませんが
私のほうはごめんねとこころで笑う
これからうまい味覚を味わうのだから
ありがとうと感謝しています。むしろ嘲って、虐げるのが当然と考えます

かにや肉や米、野菜などには権利がありません。生存権などない
食事に供されるのが当然と。

殺されるほうからみますとこれが逆転です。お前には生きる権利がない
おれに食われるのが当たり前だ、食われても仕方ない、おれが死ね
若い方がうまいから早く死ね さらにまずければ吐き出す

話を戻しますが、一切衆生は皆同じ魂をもちと仏説にあり、
いろいろな体に生まれ変わっているだけだというのが
輪廻です。

これは善因ですか、悪因でしょうか、この心はやさしい良心ですか

私は自らの心が悪ゆえに悪因しか作れないという仏説は合理的である
そして死ねば恐ろしいのは悪因をたくさん抱えているからである

その悪因を全て消してくれるのは仏である
此の世界にいる生き物は自らの因縁に束縛される
悪因悪果、善因善果の世界に生きている

これは全ての生き物に当てはまります


この世界からでるということは悪因悪果、善因善果の世界から
無為といいましてそういった束縛のない世界に生まれさせるということ
これを解脱といいます
そして、ただ解脱させるだけでもすごいことなのですが
仏にするというのが阿弥陀如来の願いです

私の心に良い心を加えて、仏にするという事です

厭離穢土 欣求浄土 

この世界は苦しいぞ、苦しいことしかないぞ、助けさせほしい
私が本願をたて修行したものがあるからその力で
助けさせてほしい。

悪因を全て消して仏にさせて欲しい

願作仏心 度衆生心

南無阿弥陀仏 南無不可思議光

2010年9月23日木曜日

 今雷が鳴っています、子供から思春期そして青年期においては
非常に恐ろしく恐かったのを覚えています。
感性が鈍ったのか今ではなんとも思いませんが

子供は暗闇を非常に恐れ、恐怖します。小さいものごころつかない
子供は特に恐れます。自らが産まれる前の記憶がそうさせるのかも
しれません。 雷の音を聞くときに地獄の音に比べればそれほど
恐くはないにしても自然現象でさえ、自らの命を奪う恐れのある
光や音に畏怖してしまうのであるなと思っています

魂が本性がいろいろと覚えているのではないかと思います
そして次の世界に対する恐怖、苦因は苦果を感じ、楽因は楽果を感じる
苦因はとあります これは苦しみのタネです苦果は苦しみの実です
苦しみのタネをもっていれば、苦しみの実がなるのが分かるとあります

恐いのは苦しい結果を受ける原因をもっているからであると
説かれています
楽因は楽果を感じる
楽な結果を生み出すタネをもっていれば楽果を感じるのですから
恐怖はないはずです

私はこの経文を読んだときあまりにも当てはまるのでなんと尊い
経典かと感じたものです
短い言葉のなかに要点がそのまま書いてありますし
また感覚的にわかるのですからさすが佛語であります

簡単です、恐いのは苦因をもっているからです
苦因を消してくれる仏がいます

けしてくださいといってみてください
南無阿弥陀仏 南無不可思議光

2010年8月31日火曜日

関係性について考える

 ここで色々と書きこみ、また正直に言いますと、意味のないことなのかな
 
 そういう風に思ってしまいます。私と阿弥陀仏と読者の関係性からみまして
 一方通行ですから、受け答えのない世界でしかありません。
 この事1つとってみましても、文章を起こすだけではやはり聞くことが大事
 であると思いますね。 聴聞という事がなぜ重要視されたかということです

 まず心に対する問いかけが必要です。自らの心に対する問いかけと相手から
 の問いかけに対して聖教などからもありますが整合性があるはずです。

 この感覚が芽生えるというのは非常に難しいものがありまして自慢になり
また高慢な感じすらありますが、仏さまとあなたの関係性について悩む人が
大勢いるような気がします。 どうしたら仏と一体になれるのだろうかと

 仏さまは常に光を放っている星のような存在です、
それもさえぎることができることはない光です。
物理学では見つかるかどうか分かりませんがあるはずです。
しかし、それをさえぎるものがあります。それは私の本性です。
煩悩とも呼べる

皆、自分のことを悪いと、そして死後にこの世界ではぐくんだ種が
芽をそして実と花をつけ自らに返ってくるといわれても、
それがどうしたの と
私はそんなに悪くはないし、死後の世界なんて分からないと

そして自らの悪をごまかしていくのが煩悩なのです。
これは私の心を星のような物に例えると黒い雲が覆っているのです。
仏さまの光をさえぎっているのは私の本性なのです。 
仏さまの光がこの黒い雲を突き破り、私の心にはいってきた
そのときのことを書き綴っているに過ぎませんが、
ここでいいたいことは
どうすればいいではなくて一体自らの本性とはどういったものかを
認識してそして、
自らの運命を知ることがあれば自ずから道が開けるのです。

自らの心が仏さまの光をさえぎる元凶でその元凶がまた悪因をつくる、
そして悪果を受ける。それを知らせてくれるのが仏さまで
そして仏の国に生まれたいと欲え

これをひたすらに説かれているのです。厭離穢土 欣求浄土 

これは穢土とはいまの世界すべて三世を指しています。
悪果、悪因のみの今の世界を離れたいと 嫌いだと 
そして欣求ですから仏のくにを願い求めよとあります

これは願ったり、願掛けをせよという意味ではありません。

ここで蓮如上人の御文章 
後生の一大事をこころにかけて 弥陀を一心一向にたのみ

ここです同じ意味です。阿弥陀如来がこの世界から出してくれるのです 
成仏するというのは本来仏になる つまり凡夫が仏になる
 それは弥陀の力でなるのです


南無阿弥陀仏 南無不可思議光

2010年8月14日土曜日

地獄 極楽2

 毎日 ありとあらゆる事を考え 妄想したりまた泣いたり
 笑ったりといろいろとあると思います
 
 殺される命について考えることもなくまた殺したことも
 忘れ 懺悔することもなく日々を過ごします
 
 そして死がくると いままでしたことが全て精算されます
 
 殺した命と助けた命 自分の心で作った罪 またよい想いなら
 それもカウントされてゆきます
 
 魂という字は本質を捉えています 鬼という この字

 鬼 殺される相手からみれば鬼ですね そして鬼が喜怒哀楽
 のまま 自らの欲望のため 毎日過ごしているのです
 
 お互い生きている者は全てこれなのです。

 魂とは良く書いてあります。殺すあいても殺されるあいても
 その本質は鬼 鬼同士で命の奪いあいを永遠に繰り返すしかない

 それが輪廻なのです 無数の因縁と鬼の魂がつくりだす悪業と罪業
 相手も鬼なのです 私も鬼ならば 死ねばされるほうに廻る
 いまは殺すほうならば次は殺されるほう

 しかしながら死後の世界は今生で作った罪だけではなく産まれる前
 から作っている罪 鬼の本性である魂なのですから作る種は悪種
 しかないのです。 

 ここで唯知作悪 と この極めて重く悪い罪をもっている悪い人  
 であるとそしてその罪は果てしなく深く重いという現実があるのです
 全ての衆生の本性は鬼であると説かれているのですから

 欲望は各々自らを心地よくせんためにある そのためには手段を選ばない
 食欲を満たすために命を奪う また若いほうが新鮮なほうがうまいと
 いって喜んでいます これひとつみても欲の本質は鬼です

 つまり魂の本質は鬼であり罪の源ですからその欲からうまれる行動も
 悪因となってくるのです

 つまるところ死後の結果は悪果のみとなる

 これを後生の一大事と説かれています 後生の一大事をこころにかけて
 弥陀を一心一向にたのみまいらせれば

 阿弥陀如来はそんな私達の姿を見るに見かねて 代わりにいかなる苦しみ
 つらさにも耐えて 私達の悪業をとりのぞき仏として生まれさせて
 この流転の因果の世界から鬼の魂をもつ私達を救済するべく永遠とも
 いえる修行をし この世界からでよ わが世界の生まれたいと欲え
 欲生我国 摂取不捨 厭離穢土 欣求浄土 南無阿彌陀仏
 
 死ねば仏にし 因果の世界から抜け出させることに不満のある方はいないと
 
 南無阿彌陀仏 南無不可思議光 

地獄 極楽 

 タイトルどおり 地獄と極楽について語る人が大勢います。
 しかしだれも語ることはできません。万が一語ったとしても
 その結果は悲惨なものになるそうです。
 
 まず死ぬのが恐いと思う人が大半ですね、そして死ねば無になる
 
 こう考えている人が多いのではないのかと私は思っています
 天国や極楽があってその場所に神さまなり阿弥陀仏なりが
 連れて行ってくれる
 そうおもってはいる人がまた多いのかもしれませんね。

 またあるいは少し智慧のある人は自分は悪い奴だから地獄へ
 往かないといけない そうおもっているかもしれませんね。
  
 実際はどうなるんでしょうね。 地獄へいく 極楽へいく
 
 しかしながらそんなことわからないですよね。見たこともないし
 またいった人も聞かない。ですが実はみんな往った事が
 あるとしたらどうでしょうか。

 そういう前世の話と後生の話を考えるのが仏教ですね
 輪廻というのもそういう意味です 廻る輪ですからね
 くるくる廻って無限の時を刻んでいるのですね。
 
 一度なりとて仏になったことはないのです。
 三悪道か人 修羅 天とあるそうです
 
 ここで私たちがわかるのは人と畜生 だけですのでこの二つの生
 を中心に話がされることが多いのだと思います。
 
 食事で何かを食べるという事は命を奪うという事なのです
 しかしながらその罪悪は生きている間は裁かれることはない
 そんなことをしたら生きている人全てを裁かなければならなくなります

 しかし罪悪は生きています 恨みをもって増えてゆく。
 育っていきます。 そしていままで作り続けた罪悪と一緒に
 みんな自らがまいた種が実になっていくのですね
 良い種 悪い種 自分がどんな種をまいているのかが
 次の生でどんな実を結ぶのか。 どれくらいの種があるのか
 良い種 悪い種 良い実 悪い実 実が種になり 種が実になる
 種が実を結ぶのが死んでからであると また今起こっている出来事
 は前世での種が今実を結んでいるのであると説かれています。
 
 因果深信とはこの理を信じることをいいます。
 私は本当だと思います 自然界は種が実になり実が種になるというのが
 真実なのです それが自然の理 自然によってその数 悪い種の数
 良い種の数からしても先は分かると思います
 
 自分の心を振り返ってみます まず罪悪感を感じていません
 命を奪うことについては法律で罰せられるゆえに
 またそれは自らを苦しめるゆえに人間同士での殺し合いという
 ものはなかなか大変なものがあります
 しかし 食事で奪う命についてはその対象にはならないのです
 同じ命のはずなのにです この罪悪についても悪い種として
 数えられてゆくのですが 殺された命は殺された相手と因縁を
 結びます そしてまた殺すのです。
 次はこの罪業を私が殺した相手に返すときがくると説かれています
 その結びつきがあるゆえに殺すのです
 しかしながら悔い改め懺悔し、許しを請う気持ちはないですね
 また殺された相手は許してはくれません。

 許せませんよね殺されれば その罪はたったのひとつの殺害という罪
 なのです そして恐ろしいことに この自然の理は私の心ので
 作る罪に対しても関わってくるのです





  
 

2010年6月10日木曜日

少しだけ

久しぶりに更新します。すこし書きたくなったので書いてみようと思い
また独りごとを書いてみます。太陽の光と月について考えてみましょう。
太陽は万物を照らしています。夜になれば暗闇がありますがそれも昼に
なれば明るく照らしてくれます。月はその中でも光っていますね。
月は照らされて明るくなります。光っていますよね。しかし月は皆さん
ご存知のようにただの石ですよね。太陽がてらすので明るく光るのですね。
阿弥陀如来の光もおなじようになんの光もない私に降り注ぎ死後光輝く姿に
してくれるのですよ。南無不可思議光 南無阿弥陀仏

2010年4月14日水曜日

なんとなく

 私が信仰を得たのはいまから22年前のことです。その時から今まで
心況といいますか心のうちが変化したことはありません。ただ地獄はとても
恐ろしいという事と当時まだ幼かったの自分がそのときに目にした経典で
話されていたことと経典の内容が一致することに安心感を覚えたものです。
なぜならば、自分が救われるか救われないかということはそれくらい重要な
関心事になっていたからです。 自分が地獄に落ちるといわれれば
それの理由を知りたくなるのは当たり前ですよね。それを解決する方法は
念仏ですよとなるわけです。簡単に説明しますと地獄という表現は恐怖を
植え付け脅しさらに信仰を強制するかのような印象がありますよね。
おまえは地獄に落ちるぞといわれればそうなのかなそうは思わないけど
この人は自分の利益のためにそういっているのだろうという
印象になるはずです。
人のいう事は信用しがたいものです。実際そうなのです。
ですから誰かにそういわれたら
あなたはどうなんですかと聞いてあげればいいのです。
そのときにですね
私も落ちるのですというのならばそれはまだ結構ですが、
私は救われたがあなたは
地獄に落ちますなんていわれたら怒っていいんじゃないでしょうか。
そんなことを言う権利はだれにもないですからね。
この法は助かる術は私たちにはないと説かれているのですから
その結果仏の力を頼るべきであってその他に選択肢はないということです。
自分の因を自分で知って自分で悟って自分で解決する智慧のある人が
存在するとは私には思えない。そんな能力がある人がいればまさに
後光が差して空中を歩き自由自在に法を説き菩薩の姿を具現し人では
ない姿を現すでしょう。ですが今やっていることが将来どういう結果になって
かえってくるか、あと今やっていることが
過去どういう原因でいまの因縁になって
いるかということは分かるのです。それだけしか分からないですね。
あと自分の本性は善いもの自分は善いことができるしていると思うから仏の力
を頼らないのですね。正直になれば分かります。実際はそうではないのですが
そう思えない心の作用を煩悩というのです。否定する心を煩悩と呼びます。
悪いことをしていながらその実悪いという現実を認めない自分の心が原因で
悪果を自分の身に受けなくてはならないのが私の最後の叫びでした。
嘘だ自分は悪くはない、
地獄なんてない仏なんているものかと必死で受け入れないのが
自分の本当の姿でした。地獄とはイメージではありません、
自分の行いを自分で精算させられてしまう
世界です。いまは借金を背負っているようなものです。
死ねば精算しないといけないのです。
そしてまた何かに生まれるそしてまた借金をつくる。
そして精算しないとと繰り返すのです。
悪い魂を本性としているということが悪因をつくる原因ですから。
すべて悪因です。かえってくるのも
全て悪果です。
いま何か善因があったとしてもそれは自分でつくったものでは無くて、
もらったものかもしれませんよ。
自分で善いことをできると思う事体が妄信でそれが本性です。
本性ですのでそれを否定するのですが自分を悪いと認められないのが本性ですから
それを認めることは凡そ難しいことなのです。
それが原因で悪果の渦におちていくのですね。
南無阿弥陀仏 
仏はそんな私を哀れんで、私のために自分はいくら苦しんでも後悔はしないと
経典の最後にかかれていますね。
きょうは昔をおもいだしましたので書いてみました。
あと 苦因は苦果を感ずとあることを
地獄を恐い、死ぬのを恐いと思う人はそれは自分のまいた種が
自分に宿っている証ですのでその種を全て刈り取ってくれる仏がいますので
是非
刈り取ってもらってください。
方法はそうお願いすればいいだけですよ。
そのことを南無阿弥陀仏というのですよ。 
阿弥陀佛の行に仏に自分の悪因を消してもらうのです。

2010年2月20日土曜日

端的に

 今日はもっと端的に簡単に書いてみようと思います。
 自分の魂と心と行いは罪体とか唯知作悪であるということですから。
 悪い結果しかもたらす事しかするしか能力がない。
 まずこれがひとつの現実。 そこで仏がいます。
  仏は善い結果をもたらす事をする結果を
  もたらす行いをすることができる。能力がある。
 だから仏に自分の行いによる結果をたのむ心をすてて
 すべてしてもらうのです。それが南無阿彌陀佛です。
 
 地獄へ落ちることを勉強すれば助かるのでもなく

 如来の心と能力を信じれば助かるのですね。
 しかしそれが自分の能力を信じるのではダメだと、ダメですね

 信行を受けて持つこと甚だ難しい。邪見驕慢悪衆生
 この話はですね 私たちが阿弥陀如来に願掛けをするように
 功徳をねだりつつ、自己で本願をつかみ結局は自力を信じているのに
 自分の悪業や悪魂についての反発や不信から仏に対して恨み事を
 いう本性を哀れんでいるような気が私にはします。
 
 簡単ですよ仏に全てしてもらう 甘えるだけです。
 自分ですることこの中に三業 身口意すべて悪果を招くと
 あるんですから、何をしても悪果を招くんです。
 それとは対照的に仏は身口意すべて慈悲です。
 その気持ちに甘えると仏の国に生まれさせてもらって
 仏にしてもらえると。その原因は仏が作ってあるよと。
 ただ自分は悪くない、悪いことをしていないと思うのが
 私の本当の気持ちですからその仏の声を無視して
 悪果しか作れないのに善行ができるかのように思い
 そして悪の本性であるのにそれは自己否定だからと
 いけないと見事に自分で肯定する。
 各欲快意 自分の快いことを各々意うと
 全ての欲望は各々自分が気持ち善ければいいという結果
 を満たすためのものである。
 当たり前であることが悪果を産む源です。
  
 どうしようもないことを苦というそうです。
 どうしようもないことからどうしようもない結果を
 招くことを後生の一大事というのです。
 食事で他の生命を奪うことも悪いことを考えることも
 親兄弟でさえ、自分に都合が悪ければあいつがいなければ
 と誰でも心で殺してはいないでしょうか。
 そういうことは本性ですので治りません
 どうしようもないのです。

 どうしようもない現実から逃れる術は、阿弥陀如来が
 悪い結果しかつくれない私に代わって仏にしてくれる
 私にできないことをしてくれているんですから。
 その因はその力は間違いがないのです。
 厭離穢土 欣求浄土 どうしようもないのだから
 仏にすべてまかせるのです
 
 南無阿彌陀佛


 

2010年2月7日日曜日

月愛三昧

 今日はちょっとマニアックな話を書こうと思っています。
月を愛すことを三昧するという表現が聖典に出てくるのですよ。
月って綺麗ですよね、私は好きです。別におおげさに月を愛さなくては
いけないのならこんな表現は適当じゃないですよね。愛月せよみたいに
書いてあるはずですからね。そうじゃないですね。これは状態を指して
いますよね。月を愛してやまない気持ちになるという事ですね。
でも意味があるんですよ。月って信心にたとえてあるんですよ。
月ってみなさんご存知のように太陽の光が反射して夜空に輝いているの
です。月が輝くのは太陽の光の力です。眺める人の心に住むという
話とは別の話ですが、つまり、どういう事かといいますと。月の
状態になれば、月が好きになるということです。自分の心が月とすれば
その光は太陽に照らされて輝くということを実感するということですね。
太陽は月をすでに照らしていますが、人それぞれ照らされるべきは
阿弥陀如来の光であると私は思いますね。南無阿弥陀仏
善導大師の疑わざるべきことを疑うことを恨むべきと
ただ廻すると廻さざるににあり。ということば
この字は周り巡るか廻巡らないかにありとありますね。
同じでしょ、月と太陽と。
私たちは阿弥陀如来を中心に廻る月のようになるか
ならないかにあるという事ですね。
面白かったですかね。今日は以上です。

2010年2月4日木曜日

 自分のこと

 私は自分が信の話を聞いたときに思っていたことを書いています。
ですので告白でしかありませんので、またそれを聞いた人は
信心為本の道理からしますとそれで信を得る事は難しいのかもしれません。
あなたの為に仏があなたに仏の心を説いてくれなければならないのかなと
個人的におもっているのです。ひとそれぞれ考えている事が違いますし、
また私の周りにもなかなか信心を得られない人もいますし、また簡単に
得られる人もいます。仏が仏の話をしてそれを聞く事を聞というのです。
こんなことをいうと善知識という人が
仏のように思われてしまう感がありますが
そうではありません。
信が仏の心ならその信を本として仏の心が伝われば信が
得られるのです。
人の為と書いて偽りと読み、凡が工夫する心と書いて
恐ろしいとよむ。われわれは智慧がなく、悪い善いも分からず、
因果もわからず地獄もないものとし、
極楽へ連れて行ってもらえると思っているのです。
しかしながら、現実は自分自身に如来の心はなく、
ただ世界が変わったかの
ようにいうのは危険なことです。
自分のことについて少し書きましたが、自性が
悪いということは、恐いことなんです。
一番認めたくないことなんですね。
地獄へゆくということは本当は自覚があるものです。
しかし、それをもって
信心であるかのように思う事は危険なんですね。危うい本当に危うい。
信心は仏の心を自分がもらうことです。
自分の心というのは魂は鬼と云うと
書くのです。殺される相手からみれば非情な鬼でしかないのです。
それが私の本当の姿なんです。その魂がこの体を借りて、
そして今まさに
その魂で悪因を作る、因果は天地神明の道理、まいた種は必ず生える
まかぬ種は生えてはこない、この因果は前今来続いて終わることはない
これを輪廻といって巡り巡って
今また罪を作り、また償ってはまた生まれを
繰り返すのである。つまりこの今の世界は罪を作る世界です。
来世は償う世界というわけです。
順番に入れ替わり立ち替わりをくりかえすのです。
終わることはありません。
仏の目からば見れば、苦の種をつくることをするか
苦の果を受けるかしかでないといわれて、
それは全ての生き物が全て同じに
見えるとのことなんです。この世界を離れ仏になれば、
苦の連鎖である因果の
世界から抜け、仏の世界に生まれ、仏にするとの誓い。
厭離穢土、欣求浄土
この世界を厭い離れよ、
私の国に生まれたいと願えというのが仏の声です。
仏が数え切れない苦しみ
のすえに悩み苦しみそして修行し成就してくれたのです。
自分の悪果というものはすべての私の行いを指しています。
ひとつとしてそれが
悪で無いといえるものはないのです。
理由は自分の魂の姿が教えてくれます。
理性とはそれをごまかすもの。本性のままでは社会が成り立たないので、
法律があるのです。理性とはきれいに思えますが、
よくみると自分の本性をいいもの
であると思い飾っているに過ぎません。
あなたは悪いといわれたら私も怒ります。
結局は欲が形を変えて
自分の生活のためにお互いに害がないようにしているの
です。それが悪いということではなくて
理性で自分が悪いことをしないように
していると思いこんでいるに過ぎないということです。
結局自分の魂の中は
自分でも見ようとしてもなかなか分からないのです。
ですが悪いものであること
は日々の生活で分かるものですし、
食事ひとつにしても何かの命を奪うのです。
それでも自分は悪いとは誰も思わないのです。
それを煩悩といって自分の本性
を隠すものなんです。悪いことをしているのは
分かっているのに悪いと思えない
のが自分の姿であるといえます。
そしてその罪を償う気持ちは全くないのです。
立場が逆転したとして、自分が食べられるほうにまわったとしましょう。
そのときわたしなら全力で逃げようとするでしょう。
しかしおいしそうだといって
つかまって食べられてしまったら。
私は相手を恨むでしょう。忘れないでしょう。
同じなんですよ。私も相手も。
そしてこの因縁は過去から今まで永遠と続いてきたのです。
仇なんですね。どれくらいの仇と殺し合いを繰り返すのかという事だけ
でもすごいことなのですが、
それだけではなく、この魂でどれくらいの悪因を
作っているのかということですね。
魂がよければ逃がしてあげるかということです
が本当にお腹がすいていたら絶対食べます。
自分の欲は自分の魂の原動力という
ものです。そのことを責めるのではありません。
それが当たり前なんです。
そして死んでからその報いを受けるのも当たり前ですね。
誰も避けて通れないのです。
今生きている間に奪った命を今の自分の命で償えないことは
誰でもわかりますよね。1対無数です。
自分の魂もいいものではない。だとしたら
因果の道理に照らしたらどうなるか明明白白です。
その罪、悪因が自分に宿っている
ということです。それを宿業というのです
。終わりの無い過去から作り続けた罪
悪業を全て滅ぼす力のある仏が阿弥陀如来です。
助けて欲しいといえば全てたすけると。
欲生我国とは私の国に生まれたいと欲え、
欲えですから今この世界から離れ阿弥陀如来
の世界に生まれ、仏にしてもらうといことです。
私は悪いことしかできない魂と罪しか
ない。その上自分に力がある善いものであると
思う愚か者でさらに自分が賢いとおもって
いるのです。そんな私だから阿弥陀如来は助けたい
、助けさせてほしいと常に泣いておられたのです。
南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛 仏典は尊く信は尊い仏も尊いのです。
如来の心の力に如来の信を如来からたのませてたのみと。
阿弥陀如来は全ての衆生を助けたい
と今の光を放ち続け全ての衆生が救われるその日まで。
帰命無量寿如来 南無不可思議光 
助けてという一声が南無であると私はおもっています。

2010年1月29日金曜日

念仏

 今日は安心決定ショウから無為のこと
無為とはなすことなしと書けりということであると。
称えても、また称えなくても、失うことがないと。
それは、阿弥陀如来の念仏が自信になれば、
その念仏は自分の中に宿るのです。
それで信は尊いと思うのですが、自分は何も分からない
のですが、単純に助けて欲しいと念仏すれば助けてもらえる
ものをその功徳をもらおうとするとややこしくなるんですね。
自分の称名で助かろうとするのは自分の力です。
機の扱いをするは雑修の失です。
自分のしたことの自覚は少しでもあれば、それを消してくれるのです。
何もかも消してなくなってしまうのです。そういう不思議な力に
まかせるのです。そうすれば分かるようになると思います。
書いても伝わらないのかもしれない。でも一人きりでも、
如来の願力を信じて、その清浄な心を身に受けることができれば
かならず分かります。自分のことが悟りを開いたよう分かるように
いう人が多いですが、分かるとすれば自分が悪いことをしなくては
過ごしては行けないということだけです。つまりは何も複雑ではないです。
自分の本性が悪魂なんですから、その行いは悪果のみ。ならば来世はと
このことを自己否定から導くのは精神がやみそうですが、別に全部なんですから
そんなに追い詰めなくてもいいと思います。
逃れられる術はないから阿弥陀如来が仏にしてあげるという誓いが
あるのです。阿弥陀如来がしてくれたことが原因になるのですから
その力を信じて任せるしか方法はありません。
しかし愚かな私は自分しか信じない、信じることができなかった。
それで自分の行動を1つ1つ確認してみたら、自分に悪い結果しか
かえってくるはずがないと気づいたんです。毎日の殺生にしても
悪いと思ったことがない。むしろ新鮮だといってあたらしい命
を求める。これは単純に分かりやすいのでよく例えに出されます。
しかし本質は食欲が原因で、また食べることも実は因果と縁で
決まっているということです。殺す相手は決まっているんですね。
そしてその相手も自分と同じであるという事が恐ろしいことです。
立場が逆転したら嫌です。がしかし、この一生で殺した魂と因縁を
持っているんです。それはそうとして殺した相手にどう思うか?
ここで自分は謝ると返事したんですね。でも自分が殺されたなら
謝られて許すのかということです。因縁とはこういうことを意識しな
くても避けて通れないことにこの世界の悲惨さがあります。
良いことをしてもぜんぜん足りません、焼け石に水。殺しておいて
白々しいことをいう自分がいます。自性は欲の塊でしかない。
つまりは欲が原因というよりは自分の魂は鬼と云うと書いてあります。
地獄絵の鬼は今の自分なんですね。殺される方からすれば。
来世ではそれが全部かえってくる、それも終わりのない過去から
この魂でつくってきた因すべて果になってかえってくるのです。
そして前の世界で作っていた因は自分に宿っている。受けた果も
宿っています。複雑な因果について知る術はないですが。
こういう話をすると地獄の話にみえますが地獄について
それを見たもの、聞いたものまたはそれを絵に書いたもの話した
ものはその場で体中から血を流し死ぬそうです。
ですので大海のなか1すくいの水くらいしか説かれてはいないそうです。
恐ろしいという表現では足りないくらい恐ろしいですが。阿弥陀如来は
全部罪、悪業を消してくれますよ
出離の縁あることなしとは、自分の魂が悪いことしかできないということ
ではないかと思います。そういう因縁しか持つことができないんですね。
よく思うのですが、機の深信に徹底すればとありますが、自分のことを
全く悪く思えないのが本能のなせる業です、全く悪いのに全く悪く思えない
からこそ、冥とか妄ということになります。迷冥ですね。そうなのに
無理に自分は悪人であるとか悪人の告白をすることに矛盾があります。
分かるのは、それが事実だとしたらどうしようもないということです。
自分のしたことがかえってくるとしたらそれを消してくれる力にたのむ
ということですね。自分は悪人であるという告白ができればいいですけど
先にそれを目標にすることは危険極まりないことです。
まずは自分の生活で自分の欲と魂について内省すれば、何1つ自分に
とっていい結果が返ってこないという事は明白です。
自分さえよければいいということはどれほどの罪をつくるのか
日々そういう魂が意識無意識関係なく因を作ります。全部かえってくる
それが後生の一大事ということです。
終わりの無い過去から今まで自分の魂がよくなったことはあるのだろうか
そのあいだいかほどの罪をつくってきたのだろうか。
それを思えば地獄は自分の住処であったという告白も自分の姿と重なります。
今生空しくすぎて今の罪を償っても因果ゆえにまた同じ罪を作り続けます。
増えることはあっても減ることがない。そうしていままでやってきたのです。
結局自分の告白しかできませんからそれだけをするしかないのです。
自分の罪深さ、悪人であることに気づかなくてはいけないというのは一見
正しいです。それに気づけば確かに信心をえることができるでしょう。
しかしそう思うほど自分の本性は甘くないんですね。むしろ善いことをしている
と思うほうが気持ちいいのでそう思いたくないからそう思わないんです。
その結果は阿弥陀如来の力を利用しようとしこそすれ、頼らないんです。
結局は断ってしまうんですね。仏自身が難しい中にも難しいという事をいうのは
自分で自分をだます性があるというところです。ですので大変な目に遭うという
ことを知らせて自分の力をたのんでくれと向こうからお願いだから助けさせて
ほしいという姿になって現れてくれているんですね。ですのでどうすればいいか
とよく聞かれたりしますと任せたらいいとしかいえないんですが、言葉足らずかも
しれませんので阿弥陀如来を信用して任せるということです。
簡単すぎて信じてもらえないんですが本当にそれだけ。
やがて大善、大功徳を与えてくれる。とあります。
しかしながら信じていなくても自分の罪を消して仏にするという話は最高
だと私は思います。 念仏とは 阿弥陀如来に南無すること
南無阿弥陀仏の一念は胸に咲きます。一度だけ自分のために阿弥陀如来に
自分の罪を消してもらっては如何でしょうか。 

2010年1月26日火曜日

一念帰命

 御一代聞書に
帰命というは
弥陀を一念たのみまいらす意なり
総じて罪は如何程あるとも
一念の信力にて消し失いたまうなり
無始巳来輪転六道の妄業、
一念南無阿彌陀佛と帰命する
佛智無生の名願力に滅ぼされて、
涅槃畢竟の真因はじめて萌すところを指すなり。
難しい表現ですが完璧に書いてあると思います。
ちょっと自分なりに見てみようかな、間違えているかも
しれませんがね、罪がどれくらい深くても
一念の信力にて消えてなくなってしまう
終わりの無い過去から今まで、色々に生まれ変わり、
その間につくる業
による果報を阿弥陀如来をたのむ一念による
信の力に滅ぼされて
信心がはじめて芽が生まれ、
信が宿るところを指すということである。
自分の持っている宿業がどれくらい恐ろしいものかは
個々人が感じていると私は思うのです、
何も分からなくても、ただ恐ろしければ何か持っているかも
しれません。もしもっていなければ、救ってもらわなくても、
別にいいでしょう。
しかし、何か恐ろしければ、
なにかとんでもない結果を身に受ける
可能性がありますよ、
これは経典に書かれていることです。
後生とは死んでからまた、
終わりの無い過去からもっている妄業を自分の
身に受ける世界が待っているという事かもしれません。
断定しないのは、それは私のことではないからです。
妄とはおそらくは
それが自分に返ってくることはないと
信じているかまたは、
分からないからなんとも思わないということかもしれないですね。
自己否定することはつらいので皆嫌にきまっています。
自己肯定するほうがいいですね。ですが、
個々人の後生の一大事について
あまりにも無責任に地獄へ行くぞと昔の人が脅す訳がないですが、
釈文には厳しく説かれていることも事実です。
今より昔と考えればその時間はあったのですし
その間自分の魂といいますか
そういう存在はどうであったかというのが本来考える
ことかもしれません。
また死後の長い間はどうなるのか、
経典にはこうすればこうなる
こうすればああなるとかいてありますが、信用する人はいません。
分からないですもんね、
ただし生きている生命はすべて仏典では平等です。
殺生のこと
ひとつでもどれくらいの因縁と宿業を持っているか
計算の及ぶところではありません。
自分に宿っている因縁をしる術はないですが
これが事実なら大変なことであることは
明白なんですね。長くなりましたが、
阿弥陀如来はその力によって自分の力によって
私が殺した命の結果受ける罪業を滅ぼして
また私のその自覚すらできない、むしろ
善い者であると思っているうえで
悪い事が平気でできる本性が産みだす欲に
よって過ごすのですから、
その結果はすべて自分につらい結果になること
も明白なんですが、
その罪業もその力によって滅ぼし、
また、そんな魂の持ち主が終わりの無い過去から
つくってさらにかえりみない罪、
身に宿る罪をすべて滅ぼし、自分と同じ仏にして
自分の国に生まれさせ、この世界から出るには、
とてつもない修行をしなくては
いけないのですが、阿弥陀如来の力によって出して
そして仏にしてくれるんだそうです。
南無阿彌陀佛 そのためにとてつもなく
長いあいだ、何もできない、むしろ悪い
ことしかしない私のために修行して苦しんで
本願を成就してくれたのでその力を
たよってくれとお願いされ、それを聞いたのでたのみました。
ただ恐ろしい、助けてほしいと。そうして助けてもらったのです。

2010年1月21日木曜日

衆生

 往生要集だったと思うんですが、記憶があいまいで申し訳ないですが、
衆生というのは、
生きている生命のある者すべてとすべてであるということです。
つまり最後のひとつの生命まで自分の国に生まれさせるという事です。
衆生という事ひとつでも私の分かり得る範疇を超えていますが、
阿弥陀如来の誓願は広大すぎて想像がつきません。
ただそのあたりの猫や犬、また虫や植物などの生命も
全て救うという誓いであります。
つまり生きている者は本来はすべて平等であると
いうことがいえます。ただ宿る肉体がそれぞれの因縁によって違うだけで、
自分が何に生まれていたのか分からないですね。そうですね、
往生要集によりますと、
大海のうえで盲目の亀が浮き木に穴があいている木の穴に顔を
出すくらいの確率になるんだそうです。
それくらい人間に生まれることは稀であると説かれています、
まずは人間に生まれたことが幸運なことです。

信の話について

 正直悩んでいます、任せる、そのままという話、
それでいいという人もいますけどね。否定はしません。
肯定もしませんけどね。信心の話は一方通行が怖いです。
一人合点でも、正しければいいですが、間違えれば
意味のないことに執着することになります。
公開の場であまり色々言うのもなんだか苦しいものが
ありますね。個人的には他の人に何かを教えていこうとは
思っていませんので、なぜこんな日記を書いているのか
自分でも分からない時があります。ただこれでいいと
早合点しないで、自分自身に対する執着心がいけないと
いうことですがこれもまた難しい。しかしながら、
そういう話にこだわるあまり、本質を見失うことが一番
恐ろしいことなんだろうと思います。ですのでこれを
もって信心であるということではないんですね。ただ
そういう意味もあるかもしれないというくらいのものです。
私には分かるはずがありません。南無阿弥陀仏

2010年1月19日火曜日

一休さん

 南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ  
 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ
 これは厳しい言葉ですが、本質をついていると思います。
 私に智慧があるならば、どうじゃこじゃいいますがね。
 南無阿弥陀仏 これはいい言葉ですよ、本当に。

2010年1月18日月曜日

まかせること2

 以前まかせるということについて、当ブログで書いたのですが、
 我ながら無責任な感じがしますので、もう少し思うところを
 書いてみようと思います。阿弥陀如来に救う力と信じさせる力
 また、仏にする力があるので、その力に任せるという事です。
 しかしながら、私の方から見ますと、その心を起こす気が無い
 それでこれからも迷い、苦しみを苦しみとも思わずに、また
 この世界から、次の世界、前の世界から今の世界、というように
 いずれのときにこの世界をでることがあるのだろう。
 阿弥陀如来の行に任せれば、自分は何もしなくても、すべて
 してくれているので、そのままでよいということです。
 阿弥陀如来の行に任せることが南無阿弥陀佛です。
 むしろ何かしらできると思うのが間違いなんですが、そのこと
 は信の上でしか分かりません。よき人の縁がありますように。
  南無阿弥陀仏

2010年1月12日火曜日

宿善と無宿善

 善が宿ることを宿善、そうでないことを無宿善といい、
宿る善とかいて信心を得る事といい、
その善は仏の心を指し、仏の心を信心といい、
その信心為本は仏の心を本とするという事でありますと、
自信教人信とは信が自ずから人に信を教えると読めます、
つまりは仏の心が自ずから人に仏の心を教えると
その仏の心とは阿弥陀仏のことであるに間違いないです。
だからこのことわりは宿善が無いと分からないので難しい事なんです。
何いってるの?って感じではないかなーと思うんですけど、
一人ごとですからね。それも夜中に書いてますしね。
まぁこれは難しいです。
かなりでも御文章はこのことを中心に書かれているので
やはり大事なことなんでしょう。
南無阿彌陀佛

2010年1月8日金曜日

今日も深夜だなー

 今日は酔ってないですが、深夜に目が冴え眠りから覚めてしまったので、
 独り言をかいていきましょう。私はよくぶつぶつとわからない事を
 気にして納得できるまで、他の人に聞く性分でして、
 うっとおしいとよくいわれます。他の人が分かっていないと知るや、
 二度と尋ねないというまた困った性格でもあります、
 何の告白じゃこれは、今宵はしらふなのにね。まぁそれはさておきまして、
 歎異鈔からですが、
 『まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、
  我も人も善悪といふことをのみ申しあえり』 
 同じことを今の時代に思いますね。大事なことです。
 ここの如来の御恩を沙汰するのがいいですかね、
 善悪という事をのみという事はそれも大事な話なんだけれど、
 如来の御恩を忘れて、何が善で何が悪であるかというような事ばかり
 お互いに言い合いしてばかりではないでしょうか。
 でも私は話をする人ではありませんけどね。
 ただ、信心為本ですから、そのほうが肝要なんですが、
 この理屈は難しいですよ。話せば長くなりそうな感じですね、
 独り言には向かないかも。なので今日も中途半端ですがおやすみなさい。

2010年1月6日水曜日

酔っ払ってます

 今日は酔っています、それでなんとなく震える手で、深夜に日記を書いているとゆう変なかんじですがねぇ
。私の今日の思いつきは、仏が仏に助けてもらえと勧められるので、それに従うのかなってなんとなく思ったんっで書いてみよーって思ったんで書いてます。それだけです。おやすみなさい。