2010年2月4日木曜日

 自分のこと

 私は自分が信の話を聞いたときに思っていたことを書いています。
ですので告白でしかありませんので、またそれを聞いた人は
信心為本の道理からしますとそれで信を得る事は難しいのかもしれません。
あなたの為に仏があなたに仏の心を説いてくれなければならないのかなと
個人的におもっているのです。ひとそれぞれ考えている事が違いますし、
また私の周りにもなかなか信心を得られない人もいますし、また簡単に
得られる人もいます。仏が仏の話をしてそれを聞く事を聞というのです。
こんなことをいうと善知識という人が
仏のように思われてしまう感がありますが
そうではありません。
信が仏の心ならその信を本として仏の心が伝われば信が
得られるのです。
人の為と書いて偽りと読み、凡が工夫する心と書いて
恐ろしいとよむ。われわれは智慧がなく、悪い善いも分からず、
因果もわからず地獄もないものとし、
極楽へ連れて行ってもらえると思っているのです。
しかしながら、現実は自分自身に如来の心はなく、
ただ世界が変わったかの
ようにいうのは危険なことです。
自分のことについて少し書きましたが、自性が
悪いということは、恐いことなんです。
一番認めたくないことなんですね。
地獄へゆくということは本当は自覚があるものです。
しかし、それをもって
信心であるかのように思う事は危険なんですね。危うい本当に危うい。
信心は仏の心を自分がもらうことです。
自分の心というのは魂は鬼と云うと
書くのです。殺される相手からみれば非情な鬼でしかないのです。
それが私の本当の姿なんです。その魂がこの体を借りて、
そして今まさに
その魂で悪因を作る、因果は天地神明の道理、まいた種は必ず生える
まかぬ種は生えてはこない、この因果は前今来続いて終わることはない
これを輪廻といって巡り巡って
今また罪を作り、また償ってはまた生まれを
繰り返すのである。つまりこの今の世界は罪を作る世界です。
来世は償う世界というわけです。
順番に入れ替わり立ち替わりをくりかえすのです。
終わることはありません。
仏の目からば見れば、苦の種をつくることをするか
苦の果を受けるかしかでないといわれて、
それは全ての生き物が全て同じに
見えるとのことなんです。この世界を離れ仏になれば、
苦の連鎖である因果の
世界から抜け、仏の世界に生まれ、仏にするとの誓い。
厭離穢土、欣求浄土
この世界を厭い離れよ、
私の国に生まれたいと願えというのが仏の声です。
仏が数え切れない苦しみ
のすえに悩み苦しみそして修行し成就してくれたのです。
自分の悪果というものはすべての私の行いを指しています。
ひとつとしてそれが
悪で無いといえるものはないのです。
理由は自分の魂の姿が教えてくれます。
理性とはそれをごまかすもの。本性のままでは社会が成り立たないので、
法律があるのです。理性とはきれいに思えますが、
よくみると自分の本性をいいもの
であると思い飾っているに過ぎません。
あなたは悪いといわれたら私も怒ります。
結局は欲が形を変えて
自分の生活のためにお互いに害がないようにしているの
です。それが悪いということではなくて
理性で自分が悪いことをしないように
していると思いこんでいるに過ぎないということです。
結局自分の魂の中は
自分でも見ようとしてもなかなか分からないのです。
ですが悪いものであること
は日々の生活で分かるものですし、
食事ひとつにしても何かの命を奪うのです。
それでも自分は悪いとは誰も思わないのです。
それを煩悩といって自分の本性
を隠すものなんです。悪いことをしているのは
分かっているのに悪いと思えない
のが自分の姿であるといえます。
そしてその罪を償う気持ちは全くないのです。
立場が逆転したとして、自分が食べられるほうにまわったとしましょう。
そのときわたしなら全力で逃げようとするでしょう。
しかしおいしそうだといって
つかまって食べられてしまったら。
私は相手を恨むでしょう。忘れないでしょう。
同じなんですよ。私も相手も。
そしてこの因縁は過去から今まで永遠と続いてきたのです。
仇なんですね。どれくらいの仇と殺し合いを繰り返すのかという事だけ
でもすごいことなのですが、
それだけではなく、この魂でどれくらいの悪因を
作っているのかということですね。
魂がよければ逃がしてあげるかということです
が本当にお腹がすいていたら絶対食べます。
自分の欲は自分の魂の原動力という
ものです。そのことを責めるのではありません。
それが当たり前なんです。
そして死んでからその報いを受けるのも当たり前ですね。
誰も避けて通れないのです。
今生きている間に奪った命を今の自分の命で償えないことは
誰でもわかりますよね。1対無数です。
自分の魂もいいものではない。だとしたら
因果の道理に照らしたらどうなるか明明白白です。
その罪、悪因が自分に宿っている
ということです。それを宿業というのです
。終わりの無い過去から作り続けた罪
悪業を全て滅ぼす力のある仏が阿弥陀如来です。
助けて欲しいといえば全てたすけると。
欲生我国とは私の国に生まれたいと欲え、
欲えですから今この世界から離れ阿弥陀如来
の世界に生まれ、仏にしてもらうといことです。
私は悪いことしかできない魂と罪しか
ない。その上自分に力がある善いものであると
思う愚か者でさらに自分が賢いとおもって
いるのです。そんな私だから阿弥陀如来は助けたい
、助けさせてほしいと常に泣いておられたのです。
南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛 仏典は尊く信は尊い仏も尊いのです。
如来の心の力に如来の信を如来からたのませてたのみと。
阿弥陀如来は全ての衆生を助けたい
と今の光を放ち続け全ての衆生が救われるその日まで。
帰命無量寿如来 南無不可思議光 
助けてという一声が南無であると私はおもっています。

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