2013年9月14日土曜日

そこで、願う

それで、仏は、究極の方法を編み出したのですね。

自分の方から、助けさせてくださいと、常に願いを立てれば、それに叶うものは

救われると。 かの有名な法然上人の、(かの願に叶うが故に)です。


つまりですね、向こうのお願いに叶う。これなんですね。助けさせてくださいに対して

分かりましたよ、負けましたよと、助けさせてあげましょうと私たちが傲慢に

受け入れてもですね、助けてくれるように作ってあるわけです。

逆にですね、助けてくだされといったから、大丈夫とおもっていると怖いのかも

しれませんね。ただね、その前提としてね、法話があるのかなとも思いますね

なして助けてもらわなやいかんのかと、あんた大変な目に逢うよと

信じないだろうけどねと。この話信用する人一人もおらんといっているのは

なにを隠そう阿弥陀如来なんですよと、知ってます、私たちが信用も、受け入れも

しないことも。でも助けたいのです、仏としては。それで向こうの方からですね

助けさせてくださいと、ずっと、ずっとお願いしているのです。ずっと気の

遠くなるような昔から、ずっとです。助けさせてくださいとね。

それを無視すること無量劫年です。ようやく、助かった人はそのことを喜びます。

方法なんてなんでもいいんですよ。怖いからたすけてといえばいい。

いえなかったら、助けさせてくださいという願に仏にしたいという願いに

気がつけば、その慈悲に触れることが肝要です。




易くして人なし

易くして人なしのわけ

なぜカンタンなのに、人が無いなのか、これが一番腹立たしいのでは

ないのですかねと、ちょっと思います。易いというのは簡単なのです

つまり、助けてもらうだけと一瞬思います。心の中で助けてくだされと

いえばそれで終わりなんだと。そうかといってそうとも書いていない

いろいろと難しい理を覚えんといかんとか。いろいろありそうだと

ただカンタンな訳は、怖いからというカンタンな理由で仏にですね

助けてよと、怖い状態だから私は怖いところに行くのが嫌だから

その原因を取り除いてくれるんですから、そうしてくださいと。

自分から言えれば良いんですね。しかしそれが実行する人が一人も

まぁ、たまにいるかもしれないが、ほとんどいない。

なぜならば、自分を良いものだと思って憚りなく、また罪悪もまた

自分でなんとかなると思ってしまうからなんでしょうかね

分かりませんけど、とにかく、仏の力を頼むことをすればいいのですが

なかなか、出来ない、というか絶対にしない、信用しないのです

それを見抜いたセリフがこれなんです。

易くして人なし

つづき4

それでその鬼そのものわたしの魂が常々、何かすると因つまり、種をまくわけです、生死という畑に自分の因をまくわけですよ。鬼の本性を持つ私の魂が因を撒くけっか生る実はすなわち悪果しかないわけですね。 ここが悪人正機という話にもつながってくるわけです。こういう鬼そのものの魂の持ち主の因は悪因しかない、悪因しか存在し得ないわけです。


結局行き着く先は苦しみの世界しかないといわれていますが、その原因を除くには良い魂がいるわけですが、自分の本当の性質、心の性質が鬼なのに、どうやって変えることができましょうか。




結局行き着く先は怖い恐ろしい世界しかないのですが、じつはそれに慣れていまして、それしかないのですから、それが当たり前なんですね。怖い世界に行くと言われれば不安でたまらなくなりますが


自分はそんなに悪くはないと思っているので、悪いことしかできないといわれれば否定するわけです




そして、結局地獄極楽の話は嘘で迷信でアホか精神病患者の戯言になってしまうわけですよ




しかし、現実に自分の性質が悪でしかないので受ける結果は悪果しかありません。


そしてそれを作るのは日常の生活なんです




死ねば悪果を受ける側、いまは作る側というわけです




生とは悪因をつくる世界 死とは悪因を受ける世界となりますね

つづき5

つまり、阿弥陀如来をたのむということが厭離穢土、欣求浄土と生死を抜けたいと思え




これが欲生我国摂取不捨 になるわけです 度衆生 つまり、私を渡してくれる生死のループから




抜け出させてくれる。仏にまでしてくれるわけです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏




さぁ あなたも南無阿弥陀仏




願作佛心と度衆生心と、私

いろいろな事を言う人がいます。何も自分の罪悪を知らなくてもよい、


あるいは、何も分からなくてもよい、ただ任せよとか、または 今、助けてくれるとか

、またもや何かしらああせよ、こうせよはないとか。

 機に執われることを雑修の失と言い、これはこれで煩悩のなせるわざです

それは、自分のことにとらわれることですね、しかし  罪悪感には意味があります。

ここを否定する教義は危険なものなんです。 

修因感果の道理により、死後への恐怖が成り立つことは

、悪因をもち それから逃れられないことから悪業因縁によって悪業果の世界に旅立っていかなくては ならないのですから、

仏説は嘘ではないのですから、要するに信心の条件としての 罪悪感ではなくて

死んだら怖い、死ぬのが怖い原因は何なのか?

 それは、悪業、悪果を招くもの、つまり悪因縁を積み重ねていくしかない

私の 恐怖心の源はなにか?それは自分の心と自性が作り出すものの種、

それの結果を 先に予測できるから、死ぬのが怖いとなる。 

信心を得るということは、

その種を すべて、仏に預け、その結果を引き受けてもらうことであるから、

信心を得れば 怖くなくなってしまう。嫌だけれども、怖くはなくなる。これを安心という。

 要するに何が言いたいのかと言いますと、

死ぬのが怖いのは、自分の作る、

また 作った罪の結果が自分にかえってくることを(感じる)からであって、

それを 見るのが嫌だからと言ってそのままにしておけば、大変な目に遭います。

 だから、阿弥陀佛に、怖いから助けてよ、と言えば助かる。 

南無阿弥陀仏

横超とは、その意味は、

まず、この世界、因縁果の三世因果の世界に真の楽はない、なぜならば、誰かが

楽をすることにおいて、何かしら犠牲を伴わないことはない、

もっとはっきりといえば、楽をすれば苦を伴う。

なにかの形で必ず返ってくる。この世界から出て、仏になるには、途方もない修行が

必要であって、まず無理なのに、それよりも何一つ良いことをすることもできないのに

この世界から出して、この世界にとどまるしかない、自分自身を仏にしてやると

それが私を救うことになる。それで私が自ら求めないのを知っているから、

仏の方から、どうか助けさせてくださいとお願いしているのが、願作佛心です


この世界から出してやりたい、苦しい思いをさせたくないと、この世界から出して

仏にしたいとの思いが度衆生心、渡すという字の右側と同じ、苦から楽へ度す

私の罪を消すだけでなく、まぁなんとすごいものでしょうか。

この阿弥陀如来讃えずにおれますか

南無阿弥陀仏