2011年6月18日土曜日

つづき2

そうなれば、いかにすれば、私を救うことができるかということをすでに
用意してあるわけです。私の方からは決して望んでたのまないから

向こうの方から、助けさせてくださいとお願いされているわけです。
私は自分からたのんで、救ってもらったんではないです、向こうから
お願いされていることを教えてもらっただけです

そしてそれに導かれただけだという事です。

願いなんです、仏の願い、阿弥陀如来のあなたを救いたいというお願い

しかし、次に苦しみの世界はない、自分は悪くないと頑なにいう自分の
本性といいますか、性格ゆえに受け入れらないだけです

でありますから難しいと説かれているのです。

私の性格が難しいんですね、しかしそれは必ずおこりますから
とても不安で仕方ないということになってしまうわけです

悪因は悪果を感じ、善因は善果を感ず。修因感果の道理です

悪果を自分で処理するか、仏にすべて任せるかという話なんです

それで悪果を仏に任せるというのが南無阿弥陀仏の本当の意味ですね

まかせるという言葉だけでは少し不十分であるかのように思います

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

つづき1

私もこの話を聴いて、即座に否定している自分がいました。
死んでから、自分がつくった種が実になって自分に襲い掛かってくる

そんなことをにわかに信じられるものではなかなかありません
しかし、この話を否定することも出来ませんでした

奪う命も自分の命も同じ命、そして、その命を奪わないと生きられない
ということは相手を殺さずにはいられないわけです。
これは自然におこっていることです。避けようがないんです
私たちはそういう世界で生きている。他の生き物も同じ

避けようがありません。また次の世界で苦しみを受けるのもまた避けようが
ありません。これも他の命も同じ。そうすれば、この世界から苦しみの世界に
たたき落とすという残酷なことを日々しないと我々は生きてはいけないわけです

そして、苦しみを永く受けた後に、偶然、盲目の亀が大海原で流木の穴に頭を
出すくらいの確立で、人間に生まれると説いてあるわけです。

そして、自分の欲望の為に生きて、そのようなことを全く省みることもせず
ただ日暮し、そうしてまた元の世界へ皆帰って行くわけです

それを痛ましい、苦しいだろう、かわいそうにと、私の罪をどうにかして肩代わり
したいと、永く永く苦しみぬいて、私には到底できないものすごく大変なことを
して、救う力を身につけた仏が阿弥陀如来です

しかし、我々は因果などない、罪をつくっているけれどそれを受ける世界などない
また、自分はそれほど悪くはない、こんなもの必要ないといってはばからない性格の持ち主
なんです。ゆえに救われないのです。

何が難しいのかを考えてみる

まず、よくいろいろなことが経典に書いてありますが、ふと思ったことがあります。
因果深信ですね。これは機でも法でも、また輪廻でも業論でも
、なんでも後生の一大事でも

すべてこの理によって説明されているわけです。
ここが深信となれば、すべて解決することに
なるかと、結局この理から全て導かれるわけです。 
そして信じないでいる自分の頑張りは
この理をないものとして考えることから始まるのではないかとも思うわけです。

ふとそう自分の書いたものの中にこれがないと思い、書いてみようと思い至った次第です。

これは私が聴いたことからそのまま記憶と自分の印象によるものをそのまま書くつもりです。
まず、良い種と悪い種がある。そして、良い種は良い実をつける、悪い種は悪い種をつける

だから、良い種をまけば、良い実がなる、悪い種をまけば悪い実がなる

これは世のならいでありますが、
教えてもらったことで私の考え想像し心に映ったことは
種が土のなかに埋もれ、芽を出し、実をつけることは、
誰が決めたことでもなく、自然に起きます

この自然になにもしなくてもおこる出来事として、
これは自然の真理なんです。これは目に見えます

そして経典に書かれている因果の道理も同じように、
自然に起こることなんです。
悪い良いと常に自分の受ける因、そして未来の果これです。
結局この果自体は悪因であることは

誰でもわかることです、日々命を奪いながら過ごすわけですから、
自分もその動物であった時があると
説かれているわけですから、その奪った命と自分の命は対等なんですから。

そしてそれを省みることのない恐ろしい自分の魂が悪因をつくることはまた、
それが主であることは
誰にでもわかることなんです。 
そしてこれからがよくあることで、この因果がないと思っているから

たのまないんですね、因果があると思えば、
つまり自分に果が返ってくるとおもえば、とんでもない
大きな爆弾をそしていつまでも減ることがない罪を抱えているとなれば
おのずからその罪を仏が
すべて消すと自分が肩代わりしてくれるというのですから、
お願いしますというだけなんですが

それが出来ない、それは単純に因果の道理がないものであると思うからにほかありません。