2017年2月26日日曜日

何を知ればよいんだろう 常没流転の身 出離の縁なき身

今日は輪廻転生について考えようとおもいます。
常没流転 常に没する これは解脱ができない。自力ではこの因果の世界から
抜け出られることがないという意味を指しています。
輪廻とは転生を繰り返すことをいいます。
因果の世界の中でおいて 悪因縁にしろ 善因縁にしろ どんな因果を
積み重ねたにしろ この世界から抜け出ることはできないのです。
釈迦如来のいう修行を行い 菩提心を得て悟りを開き 仏の位に立つまで修行
あるいは阿弥陀如来の修行した果をいただくか どちらにしても仏の教えで
しかこの世界を離れ 違う世界に生まれることは叶わないのです。
私自身を振り返ってみれば あれが旨い まずいという 精神の持ち主です
新鮮なほうが旨い 活きのいいほうが旨いといって食べているその心のどこに
慈悲があるといえるでしょうか 悪性は身に備わっています つまり修行もできない
何にもできない身であれば つねに地獄にいくか つぎもまた幸運なら人間になる
可能性もありますが 仏の国に生まれることにならなければですね くるくると
沈む 沈むというのは地獄に落ちるイメージもありますが 断定できないですから
つねに 仏の国にうまれることはできないということを言っている。ということで
はないかと思います。
信心とは欲生我国 摂取不捨 という仏の願いにかなう そのお礼が念仏である
真の念仏とは如来と同体になり 如来が私の心の中にはいり 何もしなくても
声に出さなくても 一声も出せなくても 勝手に代わりに念仏してくださる
私の心の中で絶え間なく 途切れることもなく 寝ても覚めても 四六時中
信心とはそういうもの 菩提心をいただく 悟りを開く事ができない身でありながら
仏種が身に宿る 宿った信心が宿善なのに 念仏を称えることが信心であると
これは邪なことであると考えます。 自性が悪因縁を積み重ねることしかできないと
宗祖が言っているのにも関わらず 称名が真因であるかのように説くのはおかしい
称名も弥陀から賜らないと真実ではない。 なんまんだぶと何万回となえてもそれは
信心とはいえない。 そうなら なんまんだぶ ととなえなさい だけでよい
あれやこれや なんもいらん そんな話ではないと思う 自性を知り 仏の国に生まれたいと願う 欣求浄土 厭離穢土 欲生我国 
で何を知ればいいのかと 私は思ったのはやはり 輪廻するということと 自性を鑑みれば 死体の山を築くしかできないと 殺すか殺されるか もっと鑑みれば苦を受けるか
与えるしかない 楽といっても苦から逃れない 因果と生死は繋がっている。
つまるところ 浄土にうまれ仏にならなければ 苦から逃れられない。
だから 願う仏に苦をなくしてほしいという 仏の肩代わりしてくれた行に
自分の苦の消滅と次の生で仏の姿にしてほしいとタノム
この形を南無阿弥陀仏という。 仏はすべて肩代わりしてくれる。輪廻を解脱させ
仏の国に仏として生まれさせてくれる。
諸苦毒中 忍終不悔 私のために苦しみの中に飛び込み 無量の間苦しみぬき
私のために なにもかも 苦しみを消し去り 仏の種を私に宿らせた
そして この仏はすべての衆生を救うと ただ私の国に生まれたいとおもってほしいと
ほんとうに助けてくれる 私の苦しみの種をすべて 消滅させてくれる。本当は
修因感果の道理より じぶんでひとつひとつ消していかなくてならないのに
全部消し去ってくれる。 仏の国に生まれたい 苦しみの種をとってほしいと
さらにその上信用する度量も持ちあわせていない 私のために向こうからお願いされている。助けさせてほしいと 仏が頭を下げてというかへりくだってお願いしているのです。
どうか受け取ってと信じる必要もないと。 ただ恐ろしいでしょう 死後のことが
本当はね私が思うにはこれが仏の力ではないかと思うのです。 死後恐ろしいと感じる
感性は本来ないのに 思うのはその力ゆえに後生を気にかけ 仏の国に生まれたいとおもうから 目を背ける自分に対して 恐ろしいと思うのは仏の力かなと 苦の種をもっているのですよと 仏がおしえている。 私に消滅させてほしいと仏がお願いしている。
そして苦のない世界に生まれさせると。その根拠は私の修行ですと さてその行を阿弥陀といい それをたのむことを南無という そして回向は如来から 一念のあとは憶念の信となり 決して私がボケようが 気が狂おうがなくならない信として向こうが常に私のこころのなかに宿ります。私は阿弥陀如来を忘れることは決してありません なぜなら
宿るからです。 仏の行をたのむ 他力信心のゆえんです 他力といいますが決して
離れるものではありません。 私は難しい話はいらないにしても 怖いと感ずるのは
仏の力ですから 怖くなくなればよいのです 怖い=苦の種をもっている
苦の種を仏に消滅しもらう=安心 となります 苦の種を消してくださいとたのむ
一回だけでいいのです 簡単です 怖くなくなるようにしてでもいいかもしれない
かの国に仏となって会うことを 願います 弥勒菩薩の名前を聞くだけでも地獄に落ちないそうですが。往生人になるには仏の力をたのむほか ありません。

2016年12月21日水曜日

死んでしまう人 縁無き人の為に

きっと今日にも昨日にも明日にも死んでしまう人がたくさんあることでしょう
それが当たり前ですがふと思います。どこで縁になるかわかりませんが弥勒菩薩という仏の名を聞くだけで地獄にはおちないと。ミロク菩薩です。阿弥陀如来はどうでしょうか?聞即信とも言いますが、聞くだけでいい名前とも言えるでしょう。称名にも当然功徳があるでしょう。ですがね。往生したいと思う。
生まれたいと欲することが大事なんです。生まれるためには生まれたいと思えとあるだけです。私の国に生まれたいと欲を出してと。阿弥陀如来の国に生まれたいと欲を出しておもってと。死んだ後仏にするからと。そのままでは人の世も地獄も餓鬼も畜生も何もかも汚い死体を積み上げるだけだよと。仏の国に生まれて仏になってしまえば二度とそうはならないよと。私の国に生まれて下さいとお願いされてる仏が阿弥陀如来ですよと。生まれてやるよと返事してあげればよろしい。悪因全て消して仏にしますよと、もう怖がらなくていいよと。生まれたいというのと。助けてというのば同じこと。私の身を振り返れば悪因縁を作ることばかり殺生だけでもどのくらいしてるだろう数えきれないのに。でも本質ば生まれたいと思えですのでね、因縁果と三世を超えることを横超と言う。ミロクの名を聞くだけで地獄には落ちないと。全て仏だねでありましたと頭が下がるときがきます。南無阿弥陀仏

2016年9月13日火曜日

厭離穢土 欣求浄土

恵心僧都 これを説かれ末代の私が聞く。往生要集は聖典なりと。
それ 厭離穢土 というは、汚らわしき土をいとい。いやだと思い
離れることなりと 
次に欣求浄土とは 極楽浄土に往生を遂げんと願い求めよと
仏の教えたまう綱領なり。

前世 今世 来世 あり その世界は輪廻する。苦あるのみ

ただ恐ろしくあるかないかより 厭い離れるべき世界

欣求浄土とは 仏の国に生まれたいと 生まれるには念仏というので

はなくて。 仏の国に生まれさせる力を仏が持っている上に

生まれたいと思えば捨てて離さないというのが

阿弥陀如来です

仏の国に生まれよと これが念仏です

生まれよと生まれておくれと 

願う 願い に 頼る 

仏の国に生まれてくれよという願いに

生まれたいと答える

ここが肝要です。 欲生我国 摂取不捨 南無阿弥陀仏

願わくば もろもろの衆生とともに往生せんと

恵信僧都はとかれたと。

後生は一大事ですよ

仏の国に生まれたいと願うだけですよ

仏が仏にしてくれる 仏の国へ渡す

度衆生心 浄土を願い求めよ

仏は必ず救うと

この世界をいとい離れることと

浄土を願い求めることは同じこと

これを機法一体ともいう。

殺せば殺され さらに殺したものは私を殺した者

一つの因縁にしてもしかり。 悪道は我が住みか

屍を積み上げるのみ、自性は欲ばかり

作る因は悪因のみ 今の世界が先の世界の種

になり であるが 今の世界は前の世界の果で

あるのです。 先が恐ろしいのならば その理から

この世界をいとい離れるべきではないでしょうか

自殺とか言っているわけではないです

助けてほしいということと 死後 浄土にうまれたいと

ねがうことは同じことです。

そのために阿弥陀如来の行があり。願いがある。

細かい理屈はあとでよい まず生まれたいと思うこと

死後 仏の世界で 仏になりたいと思うこと。

死のいまわでも間に合う 怖いのならば仏になりたいとおもうこと

この世界から離れ 仏の国に生まれたいとおもうこと

これが後生の一大事




2016年9月12日月曜日

私の聞いたこと

 まず、現在の浄土経において、修因感果という理を
いうことが肝要であり、三世因果の理を説くことも重要である
はずなのですが、もともと、いかんせん地獄に落ちるということを
誰も説き切れるものは居ません。
なぜならば、逆説で考えると私がこの世に生を受け、人となり
さらに信心を起こすことが因果の理からして
ありえないからです。地獄は一定な私が今、人として生をうけ
生きていること自体が矛盾するからですね。
因果の論理をひもとくのは尋常ではありません。
然し修因感果の道理は一番、わかりやすく。
私から言えば、簡単ではないにしろ、怖い結果を招くものをもっているから
怖いんだという仏の理を受けて、それが後生で炸裂するか否かまで
はっきりとは分かりませんが、悲惨な死に方をする人もいるわけで
やはり油断大敵であります。
リスクを避けるという点でも。死んだあとのことに少しでも
恐怖を感じるということなら、仏の救済にチャレンジしてみましょう。
死んだあと仏の国に生まれて、仏になりたいと思う。
この根拠は。因果がない世界に生まれるから死なない世界にうまれる
つぎに、仏になるのだから悪いことをしなくなる。
悪いことをしてその恐怖におびえなくて済むようになる
仏のみ名を聞くだけ。唱えるだけの功徳を頼むより
後生を仏の国にする。前も今も仇と恨みばかり
この先も永遠に続きます。ここを離れて仏の国に生まれることを
ねがうばかりです。駄文ですがここまで
南無阿弥陀仏 弥勒菩薩の名前を聞くだけで地獄には落ちないそうです。
しかし願わくば仏の国に生まれたい。 殺し殺されなくなります。
殺果を受けることのみでもおそろしいのに殺因をつくることからも逃れられない。
永遠に生と死をくりかえす、その世界から出して仏にするために
私の代わりになんども苦しみぬき。私の為に切り裂かれ毒におかされ
焼き焦がされ、さらに私を仏にするために修行した仏が阿弥陀如来という。
しかし簡単なことに私はこの世界から助けてと。仏にしてくれると
仏の国に生まれさせてくれると。なんにもしていないのにね
ただ苦しめるだけの自分を救うと後悔はしないと
南無阿弥陀仏 
仏の国に生まれたい、生まれさせてくれる光をくれる。
私の心の中に宿る光を私は信じている。
それでみなに勧める ただ生まれたいと思うだけでよいのだと
仏の国に

2014年4月13日日曜日

諸苦毒中 我行精進 忍終不悔

諸々の苦しみと毒の中、私は行を精進すると、終わるまで耐え忍ぶことを悔いはしない。

この行を行ったのは阿弥陀如来です。私の苦しみと毒を消すために苦しみ、毒の中に落ち

終わるまで後悔はしないと。出来上がったのが南無阿弥陀仏です。

善、非善を問わず、ただ私の罪と罪業と苦しみを憐れんで、次の生は私の国に生まれたいと

欲いなさいと。生まれたいと思ってください、お願いしますと。それだけでよいのですよと。

南無阿弥陀仏。後生の一大事を心にかけてとは、死後の苦しみ、恐怖をみすえてと、一心に

阿弥陀如来に帰命するとは、仏の国に、仏として生まれたいと思うということです。

条件は何もない。ただ生まれたいと思うだけ。生まれたいと思う。そのためには真実から目を

そむけては届かない。恐怖と苦しみは自分の因果によるものであることから逃れられないこと

からくる。悪因は悪果を感じ、善因は善果を感ず、悪人は冥より冥へと。仏門に入ると、この理

より、菩提心を得て、善因を修めなくてはならないのですが、親鸞聖人は一善の行も及びがたき

身なれば、地獄は一定すみかぞかしと言われた。 悪因は悪果を感ずより、善因をおさめようと

したけれども、ひとつの善もできないと、善果を感じられないと、いよいよ御先真っ暗だと

そこでどうしたらよいかと、何もしなくても、何もできない人のために、阿弥陀如来が代わりに

善果もたらす善因をつくり、悪果を感じる悪因を消す行を信じられないくらい長い間、苦しみ抜いて

やっとできた願いは、ただ阿弥陀如来の国に生まれたいと思うだけで救われる。

救ってもらおうかなと、助けてくれるかな、助けてもらいたいなと思うだけで救われる。

疑いのなか、信じられない私のために、非常に低いハードルなんです。信じなくても救ってくれます


助けてほしいと言えなければ、仏の国に生まれたいと思ってくださいと、阿弥陀如来がお願いして

いるのです。向こうからお願いしますと、お願いされている。ありがとうございますとは言えない。

助けてくれるのだろうか、助けてもらおうかなと、一瞬でも思ったら。救いますよと。





2013年9月14日土曜日

そこで、願う

それで、仏は、究極の方法を編み出したのですね。

自分の方から、助けさせてくださいと、常に願いを立てれば、それに叶うものは

救われると。 かの有名な法然上人の、(かの願に叶うが故に)です。


つまりですね、向こうのお願いに叶う。これなんですね。助けさせてくださいに対して

分かりましたよ、負けましたよと、助けさせてあげましょうと私たちが傲慢に

受け入れてもですね、助けてくれるように作ってあるわけです。

逆にですね、助けてくだされといったから、大丈夫とおもっていると怖いのかも

しれませんね。ただね、その前提としてね、法話があるのかなとも思いますね

なして助けてもらわなやいかんのかと、あんた大変な目に逢うよと

信じないだろうけどねと。この話信用する人一人もおらんといっているのは

なにを隠そう阿弥陀如来なんですよと、知ってます、私たちが信用も、受け入れも

しないことも。でも助けたいのです、仏としては。それで向こうの方からですね

助けさせてくださいと、ずっと、ずっとお願いしているのです。ずっと気の

遠くなるような昔から、ずっとです。助けさせてくださいとね。

それを無視すること無量劫年です。ようやく、助かった人はそのことを喜びます。

方法なんてなんでもいいんですよ。怖いからたすけてといえばいい。

いえなかったら、助けさせてくださいという願に仏にしたいという願いに

気がつけば、その慈悲に触れることが肝要です。




易くして人なし

易くして人なしのわけ

なぜカンタンなのに、人が無いなのか、これが一番腹立たしいのでは

ないのですかねと、ちょっと思います。易いというのは簡単なのです

つまり、助けてもらうだけと一瞬思います。心の中で助けてくだされと

いえばそれで終わりなんだと。そうかといってそうとも書いていない

いろいろと難しい理を覚えんといかんとか。いろいろありそうだと

ただカンタンな訳は、怖いからというカンタンな理由で仏にですね

助けてよと、怖い状態だから私は怖いところに行くのが嫌だから

その原因を取り除いてくれるんですから、そうしてくださいと。

自分から言えれば良いんですね。しかしそれが実行する人が一人も

まぁ、たまにいるかもしれないが、ほとんどいない。

なぜならば、自分を良いものだと思って憚りなく、また罪悪もまた

自分でなんとかなると思ってしまうからなんでしょうかね

分かりませんけど、とにかく、仏の力を頼むことをすればいいのですが

なかなか、出来ない、というか絶対にしない、信用しないのです

それを見抜いたセリフがこれなんです。

易くして人なし