2010年1月26日火曜日

一念帰命

 御一代聞書に
帰命というは
弥陀を一念たのみまいらす意なり
総じて罪は如何程あるとも
一念の信力にて消し失いたまうなり
無始巳来輪転六道の妄業、
一念南無阿彌陀佛と帰命する
佛智無生の名願力に滅ぼされて、
涅槃畢竟の真因はじめて萌すところを指すなり。
難しい表現ですが完璧に書いてあると思います。
ちょっと自分なりに見てみようかな、間違えているかも
しれませんがね、罪がどれくらい深くても
一念の信力にて消えてなくなってしまう
終わりの無い過去から今まで、色々に生まれ変わり、
その間につくる業
による果報を阿弥陀如来をたのむ一念による
信の力に滅ぼされて
信心がはじめて芽が生まれ、
信が宿るところを指すということである。
自分の持っている宿業がどれくらい恐ろしいものかは
個々人が感じていると私は思うのです、
何も分からなくても、ただ恐ろしければ何か持っているかも
しれません。もしもっていなければ、救ってもらわなくても、
別にいいでしょう。
しかし、何か恐ろしければ、
なにかとんでもない結果を身に受ける
可能性がありますよ、
これは経典に書かれていることです。
後生とは死んでからまた、
終わりの無い過去からもっている妄業を自分の
身に受ける世界が待っているという事かもしれません。
断定しないのは、それは私のことではないからです。
妄とはおそらくは
それが自分に返ってくることはないと
信じているかまたは、
分からないからなんとも思わないということかもしれないですね。
自己否定することはつらいので皆嫌にきまっています。
自己肯定するほうがいいですね。ですが、
個々人の後生の一大事について
あまりにも無責任に地獄へ行くぞと昔の人が脅す訳がないですが、
釈文には厳しく説かれていることも事実です。
今より昔と考えればその時間はあったのですし
その間自分の魂といいますか
そういう存在はどうであったかというのが本来考える
ことかもしれません。
また死後の長い間はどうなるのか、
経典にはこうすればこうなる
こうすればああなるとかいてありますが、信用する人はいません。
分からないですもんね、
ただし生きている生命はすべて仏典では平等です。
殺生のこと
ひとつでもどれくらいの因縁と宿業を持っているか
計算の及ぶところではありません。
自分に宿っている因縁をしる術はないですが
これが事実なら大変なことであることは
明白なんですね。長くなりましたが、
阿弥陀如来はその力によって自分の力によって
私が殺した命の結果受ける罪業を滅ぼして
また私のその自覚すらできない、むしろ
善い者であると思っているうえで
悪い事が平気でできる本性が産みだす欲に
よって過ごすのですから、
その結果はすべて自分につらい結果になること
も明白なんですが、
その罪業もその力によって滅ぼし、
また、そんな魂の持ち主が終わりの無い過去から
つくってさらにかえりみない罪、
身に宿る罪をすべて滅ぼし、自分と同じ仏にして
自分の国に生まれさせ、この世界から出るには、
とてつもない修行をしなくては
いけないのですが、阿弥陀如来の力によって出して
そして仏にしてくれるんだそうです。
南無阿彌陀佛 そのためにとてつもなく
長いあいだ、何もできない、むしろ悪い
ことしかしない私のために修行して苦しんで
本願を成就してくれたのでその力を
たよってくれとお願いされ、それを聞いたのでたのみました。
ただ恐ろしい、助けてほしいと。そうして助けてもらったのです。

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