2009年12月28日月曜日

何か書いてみよう

 今日も一人で思いついたことを書いてみようと思いました。他の人がどう思っているかとか、だれかが聞いていたり、見ていたりしているのを意識しないで自由に書こうと当初は思っていまして、それが叶えばなによりですね。日記のつもりですしね、自分が死ねばその時点で日記なんて風化してしまうだろうし、今日の出来事や思うことを適当に書いてゆくのがいいと自分で思っています。念仏をタイトルにしてしまったので、讃仏なんていっていますが、ほとんど忘れて生活していますね、経典は毎日読んでいるような気もしますが、それも個人的に読んでいるに過ぎないですしね、御一代聞書に尊ぶ人は尊くもなし、尊がる人こそ尊けれという一文や、佛智を尊ぶ蓮如上人の文が今日は目に止まりました。佛智は尊いが人は尊くない、得ている人は尊くはないのだけれど、その信心を得ているひとの信心が尊い、その佛智は仏の心なので尊いという意味の内容の一文が目に止まり、そうだなあって思いました、そういうものですね。ですので尊い信心は尊いのです。                    南無阿彌陀佛

2009年12月19日土曜日

今日の独り言

 このブログの意味も最近は自分自身の気持ちが冷めていますので、普通の日記となってきています。毎日
そういう事ばかり考えているわけでもないですからね。うん何か書いてもね、いいけどねでもやっぱり難しいし、自分の思いだけで話しはできないな、善導大師みたいに極楽浄土を見た人に教えてもらえばいいのかもしれないな。身も蓋もないですがね。私の回顧録みたく思い出話みたいな感じですので、お慈悲の塊の阿弥陀如来のことが色々といわれるのを見るのもつらいですね、あと信心決定の話ですけどね、これもみんな違っていましてひとそれぞれ微妙にですけどね、なかなか私の周りでもお互いにこれが信であるというようなことはなかなかわからないですね、でもね、阿弥陀如来はいます、大悲です、泣いています、助けたいといつも泣いていて一度抱きかかえたら決して離しはしません、そして全ての衆生を救うという誓いはすでに成就されているのでいつになるかわかりませんがすべての衆生が救われる日がくるんでしょうね、その間はこの世界にいきる全ての衆生に大悲は働いて休むことがなく、全ての世界を包みこんでいるということです、その名前が阿弥陀
無量の命と無量の光、無量の慈悲、計り知れない不思議な光、南無阿弥陀仏 阿弥陀如来にすべてまかせます

2009年12月18日金曜日

書きたくなったので書こうと思います

 最近法縁もあり、色々なことを思うのですが、私は自分の体験や信仰について語るのは少し趣きとしては違うことも言うだろうし、間違ったことを言っていながら、自分は正しいという事を思い込み他人に迷惑をかける事を私はおそれますのであまり深く教義に触れるのはよします。ただ好きな経典の文章をそのまま書いて、その文自体の意味するところが少しでも伝われば、それに越したことはないですが、何回も言っているのですが、文章では難しいです。経典があります、その経典で伝わらないことが私の文章で伝わるという事のほうがおかしいのです。ですから原典が最上です。わたしは南無阿彌陀仏について思うことを書いて他の人が気づくかどうか試したことがありますが、不可能であると同時に害悪でしかないような気さえしました。リアルタイムのチャットならまだいいかもしれませんけどね。
『念仏往生はもとより破戒無智の者のためなり。もし智慧もひろく、戒をも全くたもつ身ならば、いづれの教法なりとも修行して生死を離れ菩提を得べきなり、それが我身に能はねばこそ、今念仏して往生をば願へ。』
いいですね、後世物語聞書からです、この内容を聞くことが重要なんですよ。このままです、注釈はいりませんね。南無阿彌陀仏 ずっと考えていたことなんですが、色々と書いていたんですが、結局は書いていてもそれは伝わるのは非常に難しいということですね。理由は私が独り言をいっているだけだからです。何をかいていてもなかなか難しいという事が最近よく理解できます。ですのでこの日記自体もあまり意味がないのかもしれません。でも好きな経典の文章を注釈なしで載せるくらいならいいですかね。本当に勧めになるのはそういう事のような気がします。