ここで色々と書きこみ、また正直に言いますと、意味のないことなのかな
そういう風に思ってしまいます。私と阿弥陀仏と読者の関係性からみまして
一方通行ですから、受け答えのない世界でしかありません。
この事1つとってみましても、文章を起こすだけではやはり聞くことが大事
であると思いますね。 聴聞という事がなぜ重要視されたかということです
まず心に対する問いかけが必要です。自らの心に対する問いかけと相手から
の問いかけに対して聖教などからもありますが整合性があるはずです。
この感覚が芽生えるというのは非常に難しいものがありまして自慢になり
また高慢な感じすらありますが、仏さまとあなたの関係性について悩む人が
大勢いるような気がします。 どうしたら仏と一体になれるのだろうかと
仏さまは常に光を放っている星のような存在です、
それもさえぎることができることはない光です。
物理学では見つかるかどうか分かりませんがあるはずです。
しかし、それをさえぎるものがあります。それは私の本性です。
煩悩とも呼べる
皆、自分のことを悪いと、そして死後にこの世界ではぐくんだ種が
芽をそして実と花をつけ自らに返ってくるといわれても、
それがどうしたの と
私はそんなに悪くはないし、死後の世界なんて分からないと
そして自らの悪をごまかしていくのが煩悩なのです。
これは私の心を星のような物に例えると黒い雲が覆っているのです。
仏さまの光をさえぎっているのは私の本性なのです。
仏さまの光がこの黒い雲を突き破り、私の心にはいってきた
そのときのことを書き綴っているに過ぎませんが、
ここでいいたいことは
どうすればいいではなくて一体自らの本性とはどういったものかを
認識してそして、
自らの運命を知ることがあれば自ずから道が開けるのです。
自らの心が仏さまの光をさえぎる元凶でその元凶がまた悪因をつくる、
そして悪果を受ける。それを知らせてくれるのが仏さまで
そして仏の国に生まれたいと欲え
これをひたすらに説かれているのです。厭離穢土 欣求浄土
これは穢土とはいまの世界すべて三世を指しています。
悪果、悪因のみの今の世界を離れたいと 嫌いだと
そして欣求ですから仏のくにを願い求めよとあります
これは願ったり、願掛けをせよという意味ではありません。
ここで蓮如上人の御文章
後生の一大事をこころにかけて 弥陀を一心一向にたのみ
ここです同じ意味です。阿弥陀如来がこの世界から出してくれるのです
成仏するというのは本来仏になる つまり凡夫が仏になる
それは弥陀の力でなるのです
南無阿弥陀仏 南無不可思議光
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