2019年12月25日水曜日

修因感果

自身の悪機たることをしらざるになる。おほよそ凡夫引接無縁の慈悲をもつて修因感果したまへる別願所成の報仏報土へ五乗ひとしく入ることは、諸仏いまだおこさざる超世不思議の願なれば、たとひ読誦大乗解第一義の善機たりといふとも、おのれが生得の善ばかりをもつてその土に往生することかなふべからず 悪業をばおそれながらすなはちおこし、善根をばあらませどもうることあたはざる凡夫なり 口伝称から 法然上人から親鸞上人への中に 自分の悪業について書いてあります。ここを使って批判するわけではないです悪しからず、何が言いたいのかといいますと。悪業を恐れながらすなわち起こし、なぜ恐れるのかすなわち分かるからです来世の報いを、あらませというのは古語で期待してという意味です、期待して善根を植えようとするけれども得ることができないという意味です。自分が悪機であることを知らず、己が悪業をおそれながら起こし、己の善業は期待しても得られず。私の言いたいことが口伝称にそのまま書いてありますが、現代語に訳すと少しわかりやすいですね。善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるここも口伝鈔ですね。なんとも有難い。ここが私は信心の要の一つであると思っています。悪業を感じる、自身は悪機である、殺したものに謝意を示すといえども旨い不味いという己の機は鬼そのもの、その機が作る悪業無始以来つくる悪業を恐ろしいと感じないわけがないのであります。その感じる悪業を仏が除くのでありますが、どうすればいいのかとよくあるのですが、悪業を感じるから除いてほしいと実はなかなか思わないのです。私のことよく知っている仏はここに本質のラストのクライマックスを用意しているのです。それが三世因果を超越し、仏の姿にし仏の国に生まれさせて救済すると仏のほうからお願いしますと願うこれを南無阿弥陀仏というのです。すなわち悪業を除くだけではなく、二度と悪果を受けないように何もしないできない私に仏になる果を与え、仏になってくださいと願う仏が阿弥陀如来なのです。私の国に生まれたいと願ってください。そう願ってくだされば、必ず救います。南無阿弥陀仏 さらに言いますと悪業を仏はどうやって消すかそれは私が殺果をもてば己が殺され、すべて代わりに受けてしまわれるのです。そしていつも私の中で仏がいることを教えてくれます。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて となり 生死を出離し浄土に往生となります。生死とは因果の世界、浄土は非因果の世界です。死ぬことがないです。仏のままです。

回向と不回向と以心伝心

真実信心とは明らかに体験であり、心をもって心を伝えることが必要であり、
信心獲得ということが昨今なくなってしまったと感じるのであります。
確かに分からないというのは無理がない。分かる道理がありません。
なぜならば仏による救済だから、仏の知恵なのです。だけれども、心が欠けていては
無理なのです。地獄に落ちるか否かについては明らかではありません。
しかしながら、往生ということについては信心が明らかに条件である。
菩提心ともいう。発菩提心ともいう。凡夫から起こす菩提心ではなく、仏からの回向
による信心である、その面から称名と結び付け、称名を行とするといっていますが
、それはこじつけという批判があります。称名は明らかに正しいですが、往生の真因は
信心すなわち菩提心。菩提心を得るために聖道門の方が修行を行い菩薩になられ仏となると。浄土門は称名だと。じつは浄土門は念仏です。念とは心なので。称ではない。ナンマンダブと言うことではなく、念ずることです。この念において回向と不回向とあるのです。仏が凡夫の中に入り回向する状態を信心を得た状態というのです。そしてその念仏の主体が仏なのです。仏が自動的に念仏を凡夫の中で行う状態を信心というのです。太陽に照らされた月は己が力によっては何もしない。まったく何もしない。
大事なのはやはり信心を得ることであるのです。しかしながら、仏の知恵なので分からない。得た者は非常に少なくいないに等しい。カルトと言われても仕方がない。そしてさらに難しいのは心をもって心を伝えなくては伝わらないところが難しい。機会的にはかなり難しい。宗教として考えてみれば、門即信という側面はある。真宗のお坊さんが阿弥陀如来の功徳によって救われると説くことをあながち否定することはないけれど、信心を否定するのは明らかに誹謗正法であります、しかし仏は許すに決まっている。佛に罰はない。
あるのなら救われるわけがない。ここに書いて何になるのかとも思います正直。
しかしながら真実信心があり、以心伝心があり、仏の心があり、伝え伝わっていることがあります。そのこころは機を知らしめて、たのむ機にほとけの回向があり、菩提心を得ることがあり、仏の念仏を得るのですから、称名を正業とするというような話とは違います。念仏ですから称仏ではないのです。明らかに違います。どうすれば得られるか一人で得る方法があるのだろうかと常に思い悩んではいるのですが、修因感果の道理により、
己がしたことの結果を己が感じる、それは来世の報いを今感じる。すなわち死後の恐怖とは来世の己が報いであると。死後恐怖を感じず怖くないとなるにはその果が楽の果でなくてはなりません。これを書くなれば楽因が楽果を感じ、苦因は苦果を感じる。この理により後生に焦点をあて、苦果であるか、楽果であるかなのですから自ずから明らかになります。