2010年8月14日土曜日

地獄 極楽 

 タイトルどおり 地獄と極楽について語る人が大勢います。
 しかしだれも語ることはできません。万が一語ったとしても
 その結果は悲惨なものになるそうです。
 
 まず死ぬのが恐いと思う人が大半ですね、そして死ねば無になる
 
 こう考えている人が多いのではないのかと私は思っています
 天国や極楽があってその場所に神さまなり阿弥陀仏なりが
 連れて行ってくれる
 そうおもってはいる人がまた多いのかもしれませんね。

 またあるいは少し智慧のある人は自分は悪い奴だから地獄へ
 往かないといけない そうおもっているかもしれませんね。
  
 実際はどうなるんでしょうね。 地獄へいく 極楽へいく
 
 しかしながらそんなことわからないですよね。見たこともないし
 またいった人も聞かない。ですが実はみんな往った事が
 あるとしたらどうでしょうか。

 そういう前世の話と後生の話を考えるのが仏教ですね
 輪廻というのもそういう意味です 廻る輪ですからね
 くるくる廻って無限の時を刻んでいるのですね。
 
 一度なりとて仏になったことはないのです。
 三悪道か人 修羅 天とあるそうです
 
 ここで私たちがわかるのは人と畜生 だけですのでこの二つの生
 を中心に話がされることが多いのだと思います。
 
 食事で何かを食べるという事は命を奪うという事なのです
 しかしながらその罪悪は生きている間は裁かれることはない
 そんなことをしたら生きている人全てを裁かなければならなくなります

 しかし罪悪は生きています 恨みをもって増えてゆく。
 育っていきます。 そしていままで作り続けた罪悪と一緒に
 みんな自らがまいた種が実になっていくのですね
 良い種 悪い種 自分がどんな種をまいているのかが
 次の生でどんな実を結ぶのか。 どれくらいの種があるのか
 良い種 悪い種 良い実 悪い実 実が種になり 種が実になる
 種が実を結ぶのが死んでからであると また今起こっている出来事
 は前世での種が今実を結んでいるのであると説かれています。
 
 因果深信とはこの理を信じることをいいます。
 私は本当だと思います 自然界は種が実になり実が種になるというのが
 真実なのです それが自然の理 自然によってその数 悪い種の数
 良い種の数からしても先は分かると思います
 
 自分の心を振り返ってみます まず罪悪感を感じていません
 命を奪うことについては法律で罰せられるゆえに
 またそれは自らを苦しめるゆえに人間同士での殺し合いという
 ものはなかなか大変なものがあります
 しかし 食事で奪う命についてはその対象にはならないのです
 同じ命のはずなのにです この罪悪についても悪い種として
 数えられてゆくのですが 殺された命は殺された相手と因縁を
 結びます そしてまた殺すのです。
 次はこの罪業を私が殺した相手に返すときがくると説かれています
 その結びつきがあるゆえに殺すのです
 しかしながら悔い改め懺悔し、許しを請う気持ちはないですね
 また殺された相手は許してはくれません。

 許せませんよね殺されれば その罪はたったのひとつの殺害という罪
 なのです そして恐ろしいことに この自然の理は私の心ので
 作る罪に対しても関わってくるのです





  
 

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