2011年5月25日水曜日

つづき5

つまり、阿弥陀如来をたのむということが厭離穢土、欣求浄土と生死を抜けたいと思え

これが欲生我国摂取不捨 になるわけです 度衆生 つまり、私を渡してくれる生死のループから

抜け出させてくれる。仏にまでしてくれるわけです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

さぁ あなたも南無阿弥陀仏

つづき4

そこで生とは悪因をつくる世界、死とは悪因を受ける世界ですが、

これが逆転で考えますと、悪因を受けたことによって悪因をつくる側になることが出来る。

繰り返していますよね、グルグルと。悪因悪果、自因自果です。これが永遠に続くというのが

仏教なんです。そしてその悲惨な世界からの脱出が解脱なわけですよ

生死から抜ける→解脱 輪廻→生死 生死からの解脱→成仏なわけです

つづき3

さて、自分の心はどうでしょうか、昨日奪った命に反省と懺悔と謝罪をし、いちいち殺されて

そして命をとってすみませんでしたと謝るひとが一人としているでしょうか。

そういうものではありませんね、全く記憶に残っていない、悪いことだという認識さえないですね

しかし、これが人間同士ならどうでしょうか、子供のほうがおいしいといって喰うとか、生のほうがウマイ
といって喰うなど。またそれは植物でも同じことです。命がある以上痛みがありますから

一切衆生というのは私達人間だけの話ではありませんで、全ての生きるものが入っています

実際は残酷な魂をもっているのですが、その事実を認めると何も食べられない、おいしくない

いろいろ理由がありますが、鬼そのものなんですね。

つづき2

それで、因果より何が見えるか、つまり何か行うのには因縁があり、

その果、因を変えることは出来るけれど、それを変えなければ

その因果は続くということです。つまり、殺因殺果はその殺すということをどこかでやめれば

その因は変わる、また自分の命を差し出して、また奪わなければ

それは消える上にまた善いことになると。しかしどうでしょうか、そんなことが出来るわけがありません

結局我々は逃げられない世界にすでに生きている証に命を戴かなければ生きていけないという

現実があります。それが自分に返ってくるという世界があるというだけでも大変なことなのです。

つづき1

因果では起こりうることは必然でそのループの中にいて、

運命というように命を運んでいる。運ぶ命と運んできた命があると。

全て因果関係があり、偶然ということはないというのが、因果論です。
袖振り合うのも多生の縁と。多生とはなんだろうか

多く生まれたか生まれるに違いありません。これは因縁のある相手だから
袖がすりあうのだという諺です

つまり、その袖がすりあった相手は、あなたの親や兄弟だったかも知れないという意味なのです

何回も生まれ、死に、魂を運び、肉体を替え、始まりのない始まりから今まで、生き死にを

繰り返してきたということになります。そして、無数の命と縁を結び、命を奪いながら生きて

そして、死んでゆきます。これが運命というものであります。

因果の道理でよく頻繁に出てくるたとえに食べ物の話があります

これを食すということはその命を奪うことである。その命を奪う因はその命を奪われる果になる

しかし、実はその因は実は自分の命が奪われた因により、その命を奪う果を受けたものである

こういう理屈であります。

また久しぶりに書いて見よう

ここでは一人で一人ごとばかりをつづっていますので、

誰か信心を得られるきっかけになるやならんかですが

自分の体験を鑑みて何か書いておこうと想うときに書いています。

因果と生死と繋げ、業と輪廻もつながり、それぞれが別々ということには

なりません。基本仏教は生死をへだつ存在、生死を超越した存在になることを

目指しています。仏になることを目指すのが仏道修行であるといえます。

そのためにいろいろなことを言う人がいていろいろなことをしています。

真宗ではその仏になる種を阿弥陀如来に成らせて欲しい、成仏したいよと

言えば、そうしてくれるんですよと教えています。

しかしながら、人の心や根性はそれが現実だとは受け入れませんで、あることしか

分かりません。目の前に火の世界、業火の世界が繰り広げられ、また苦しみの世界に

行くぞといわれれば、恐怖を煽るなといわれてしまいます。

そうなるから、それが嫌だから、助けて欲しいと思う事が、念仏であるといえば否定されます

実はその原因はそういう理屈の中に実際に煽って、恐がらせて、結局解決しない信心であるからです