2010年8月31日火曜日

関係性について考える

 ここで色々と書きこみ、また正直に言いますと、意味のないことなのかな
 
 そういう風に思ってしまいます。私と阿弥陀仏と読者の関係性からみまして
 一方通行ですから、受け答えのない世界でしかありません。
 この事1つとってみましても、文章を起こすだけではやはり聞くことが大事
 であると思いますね。 聴聞という事がなぜ重要視されたかということです

 まず心に対する問いかけが必要です。自らの心に対する問いかけと相手から
 の問いかけに対して聖教などからもありますが整合性があるはずです。

 この感覚が芽生えるというのは非常に難しいものがありまして自慢になり
また高慢な感じすらありますが、仏さまとあなたの関係性について悩む人が
大勢いるような気がします。 どうしたら仏と一体になれるのだろうかと

 仏さまは常に光を放っている星のような存在です、
それもさえぎることができることはない光です。
物理学では見つかるかどうか分かりませんがあるはずです。
しかし、それをさえぎるものがあります。それは私の本性です。
煩悩とも呼べる

皆、自分のことを悪いと、そして死後にこの世界ではぐくんだ種が
芽をそして実と花をつけ自らに返ってくるといわれても、
それがどうしたの と
私はそんなに悪くはないし、死後の世界なんて分からないと

そして自らの悪をごまかしていくのが煩悩なのです。
これは私の心を星のような物に例えると黒い雲が覆っているのです。
仏さまの光をさえぎっているのは私の本性なのです。 
仏さまの光がこの黒い雲を突き破り、私の心にはいってきた
そのときのことを書き綴っているに過ぎませんが、
ここでいいたいことは
どうすればいいではなくて一体自らの本性とはどういったものかを
認識してそして、
自らの運命を知ることがあれば自ずから道が開けるのです。

自らの心が仏さまの光をさえぎる元凶でその元凶がまた悪因をつくる、
そして悪果を受ける。それを知らせてくれるのが仏さまで
そして仏の国に生まれたいと欲え

これをひたすらに説かれているのです。厭離穢土 欣求浄土 

これは穢土とはいまの世界すべて三世を指しています。
悪果、悪因のみの今の世界を離れたいと 嫌いだと 
そして欣求ですから仏のくにを願い求めよとあります

これは願ったり、願掛けをせよという意味ではありません。

ここで蓮如上人の御文章 
後生の一大事をこころにかけて 弥陀を一心一向にたのみ

ここです同じ意味です。阿弥陀如来がこの世界から出してくれるのです 
成仏するというのは本来仏になる つまり凡夫が仏になる
 それは弥陀の力でなるのです


南無阿弥陀仏 南無不可思議光

2010年8月14日土曜日

地獄 極楽2

 毎日 ありとあらゆる事を考え 妄想したりまた泣いたり
 笑ったりといろいろとあると思います
 
 殺される命について考えることもなくまた殺したことも
 忘れ 懺悔することもなく日々を過ごします
 
 そして死がくると いままでしたことが全て精算されます
 
 殺した命と助けた命 自分の心で作った罪 またよい想いなら
 それもカウントされてゆきます
 
 魂という字は本質を捉えています 鬼という この字

 鬼 殺される相手からみれば鬼ですね そして鬼が喜怒哀楽
 のまま 自らの欲望のため 毎日過ごしているのです
 
 お互い生きている者は全てこれなのです。

 魂とは良く書いてあります。殺すあいても殺されるあいても
 その本質は鬼 鬼同士で命の奪いあいを永遠に繰り返すしかない

 それが輪廻なのです 無数の因縁と鬼の魂がつくりだす悪業と罪業
 相手も鬼なのです 私も鬼ならば 死ねばされるほうに廻る
 いまは殺すほうならば次は殺されるほう

 しかしながら死後の世界は今生で作った罪だけではなく産まれる前
 から作っている罪 鬼の本性である魂なのですから作る種は悪種
 しかないのです。 

 ここで唯知作悪 と この極めて重く悪い罪をもっている悪い人  
 であるとそしてその罪は果てしなく深く重いという現実があるのです
 全ての衆生の本性は鬼であると説かれているのですから

 欲望は各々自らを心地よくせんためにある そのためには手段を選ばない
 食欲を満たすために命を奪う また若いほうが新鮮なほうがうまいと
 いって喜んでいます これひとつみても欲の本質は鬼です

 つまり魂の本質は鬼であり罪の源ですからその欲からうまれる行動も
 悪因となってくるのです

 つまるところ死後の結果は悪果のみとなる

 これを後生の一大事と説かれています 後生の一大事をこころにかけて
 弥陀を一心一向にたのみまいらせれば

 阿弥陀如来はそんな私達の姿を見るに見かねて 代わりにいかなる苦しみ
 つらさにも耐えて 私達の悪業をとりのぞき仏として生まれさせて
 この流転の因果の世界から鬼の魂をもつ私達を救済するべく永遠とも
 いえる修行をし この世界からでよ わが世界の生まれたいと欲え
 欲生我国 摂取不捨 厭離穢土 欣求浄土 南無阿彌陀仏
 
 死ねば仏にし 因果の世界から抜け出させることに不満のある方はいないと
 
 南無阿彌陀仏 南無不可思議光 

地獄 極楽 

 タイトルどおり 地獄と極楽について語る人が大勢います。
 しかしだれも語ることはできません。万が一語ったとしても
 その結果は悲惨なものになるそうです。
 
 まず死ぬのが恐いと思う人が大半ですね、そして死ねば無になる
 
 こう考えている人が多いのではないのかと私は思っています
 天国や極楽があってその場所に神さまなり阿弥陀仏なりが
 連れて行ってくれる
 そうおもってはいる人がまた多いのかもしれませんね。

 またあるいは少し智慧のある人は自分は悪い奴だから地獄へ
 往かないといけない そうおもっているかもしれませんね。
  
 実際はどうなるんでしょうね。 地獄へいく 極楽へいく
 
 しかしながらそんなことわからないですよね。見たこともないし
 またいった人も聞かない。ですが実はみんな往った事が
 あるとしたらどうでしょうか。

 そういう前世の話と後生の話を考えるのが仏教ですね
 輪廻というのもそういう意味です 廻る輪ですからね
 くるくる廻って無限の時を刻んでいるのですね。
 
 一度なりとて仏になったことはないのです。
 三悪道か人 修羅 天とあるそうです
 
 ここで私たちがわかるのは人と畜生 だけですのでこの二つの生
 を中心に話がされることが多いのだと思います。
 
 食事で何かを食べるという事は命を奪うという事なのです
 しかしながらその罪悪は生きている間は裁かれることはない
 そんなことをしたら生きている人全てを裁かなければならなくなります

 しかし罪悪は生きています 恨みをもって増えてゆく。
 育っていきます。 そしていままで作り続けた罪悪と一緒に
 みんな自らがまいた種が実になっていくのですね
 良い種 悪い種 自分がどんな種をまいているのかが
 次の生でどんな実を結ぶのか。 どれくらいの種があるのか
 良い種 悪い種 良い実 悪い実 実が種になり 種が実になる
 種が実を結ぶのが死んでからであると また今起こっている出来事
 は前世での種が今実を結んでいるのであると説かれています。
 
 因果深信とはこの理を信じることをいいます。
 私は本当だと思います 自然界は種が実になり実が種になるというのが
 真実なのです それが自然の理 自然によってその数 悪い種の数
 良い種の数からしても先は分かると思います
 
 自分の心を振り返ってみます まず罪悪感を感じていません
 命を奪うことについては法律で罰せられるゆえに
 またそれは自らを苦しめるゆえに人間同士での殺し合いという
 ものはなかなか大変なものがあります
 しかし 食事で奪う命についてはその対象にはならないのです
 同じ命のはずなのにです この罪悪についても悪い種として
 数えられてゆくのですが 殺された命は殺された相手と因縁を
 結びます そしてまた殺すのです。
 次はこの罪業を私が殺した相手に返すときがくると説かれています
 その結びつきがあるゆえに殺すのです
 しかしながら悔い改め懺悔し、許しを請う気持ちはないですね
 また殺された相手は許してはくれません。

 許せませんよね殺されれば その罪はたったのひとつの殺害という罪
 なのです そして恐ろしいことに この自然の理は私の心ので
 作る罪に対しても関わってくるのです