2011年12月6日火曜日

書き足し5

それで、どうなるかといえば、どうにもなりませんが、

永遠に生まれかわり、死にかわりするこの世界を支配

しているのが因果の道理であります。今生もしかり、

また来世もしかり、私は生まれ変わり、死にかわり

した死体が世界一高い山よりも高くなると。

そして、この世界にいるかぎりは、罪をつくることからも

罪を受けることからも、また、この世界からでること

も自分の力ではかなわないものです。

それで、その姿を見た阿弥陀如来が、私の罪をすべて

引き受けて、さらにこの世界から出して、因果と輪廻の

世界からだして、仏にする。そうすればこのような

痛ましいことから逃れられると、必ず救うと。

そして私たちにわかりやすいように、修因感果の道理

もとかれ、悪因は悪果を感ず、善因は善果を感ずと。

悪因を感じる人は、その悪果をすべて消してくれ

この世界から出して仏にするという仏がいますので

その名前を呼んでください。 南無阿弥陀仏。

厭離穢土、欣求浄土。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。

書き足し4

そして、そのような悪い自性で作り続ける

罪業を持ったまま、後生は暗い所に及ぶとしますね

そして、またひょっこりとこのような人として生まれ

また死にます。つまり、さきほどの例ですと

殺し続けた罪を償うというか、果を受けたならその果が

また因となり、こんどは殺し続ける罪をつくる側に

回る、もっといえば、悪性で作った果を受けたならば

それが因となり、次にはまた悪性で因をつくるとなります。

永遠にいろいろな肉体に生を受け、生まれ変わり死に代わりし

死ぬたびに報いを受け、やむことがありませんと。

つまり、この世界すべてを厭えと、いやだと思えと。

今見えている世界が罪をつくる世界だとしたら、

死後には受ける世界がまっていると。

書き足し3

つまるところ、殺すのも殺されるのも

避けることはできません。永遠に殺し合いを

しなくてはなりません。さしずめ等活地獄のような

話でもありましょうが、実際はもっと凄惨であり

表現の及ぶところではないとなっています。

それは私たちすべて生きるものの自性が罪体ですから

自分の魂の本質が罪をつくる要素しかもっていない。

欲と毒の塊であり、気に入らなければ、まさに鬼の

ような形相にもなり、その本質を少しだしますが、

私自身でよく思うのですが、何かを食するときに

おいしいとまずいということを言っている姿が

そのままその本質を教えています。

書き足し2

それを三世因果の道理にあてますと、いま殺した生き物は

前の世界において私を殺した者であるとなると説かれている

つまり、殺因と殺果は同じでありまして、殺果があるという

ことは殺因があると、因縁果というわけです。何かを殺す

ということがあればすなわち、殺される因もむすんでいる

これが因果の道理なわけですね。一体どれほどの因を結んで

いるのだろうか。またどれほどの果が帰ってくるだろうかと

業というのは、宿業と説かれています、つまり宿っている

自分の業行は宿っていることですと。これは先ほどの殺因

殺果の話とつながります。前世から作っている因というもの

が果をうける何か、悪果であるか楽果であるかはわかりません

が、それが私たちの身体にも魂にも宿っているわけです。

また書き足ししてみよう

私は、この信心の話は、きちんと伝えることが

出来たのならば、そして、当人が如来の行によると

自分の行を捨て、如来に助けてもらうしかないと

現状において、どうしようもない現実を受け入れたら

阿弥陀如来の行に頼るしかないとなると思います。

そこで私の想いを振り返っているわけですが、

命や魂というものを考えてみたときに、たとえば

犬の身体に生まれれば、犬となり、人間の身体に

生まれれば人となると。 そして、動物の魂も

人の魂も同じであり、その性は悪性であると。

生きるということはすでに、ほかの生ある魂の

命を奪うということですから、自分と同じ魂を

もつ生き物と縁を結ぶということになるわけです。

2011年12月5日月曜日

最近 よく思うこと

自分がこのように、いろいろ書き連ねて、何か

善いことを言っているつもりであっても、

所詮人の、人間の頭であれこれと言っている

その現実からみれば、この投稿自体に意味が

あるだろうかとふと、思う。

阿弥陀如来の本願は阿弥陀如来が作り、また

私を常に照らしてくれている。そして私に

何を教えてくれるかといえば、結局自分は

毒を吐いているのかと。これでよくなったのか

とじぶんで毒を出したところで、外に毒の塊

を出したところで、毒の大元は自分自身なのだ。

結局毒というものは消えてなくならない。

2011年11月19日土曜日

悪性 罪体 悪業 悪因悪果 自力

一応、並べて書いてみるとこうなります。自分の悪性は罪体で

悪業に縛られ、悪因は悪果をうみ、それを自分で解決することを

自力という。 雑行雑修自力の心を振り捨てて、一心に阿弥陀仏に

回向すれば、往生は治定せしめたもう。 

整理すれば、自分のやること、なすこと全て罪体の悪性による

もので、悪果のみしか引くものがない。つまりすべての行動が無駄

ゆえに、阿弥陀如来は助けてくれるわけです。

その行が阿弥陀仏、その力に帰依する。阿弥陀如来の行は行とは

行いでありまして、またその結果、願いでありましょう

表現において私のおよぶところではありませんが、

罪しかつくることができない、罪体のみの自分において、このような

素晴らしい南無阿弥陀仏をいただくことを幸福に思い、

念仏します。 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

2011年11月3日木曜日

南無阿弥陀仏と言って見る

南無阿弥陀仏 よく、憶念の信とありますが、私が思うには、
信心を得た人は、如来が代わりに念仏をしてくれますので
その感謝、報恩になるという。有難うございますという意味
で念仏をするということになるのだろうなと感じております。

三世にわたって因果があり、無数の因縁から逃れられること
はなく、自分の因縁によらざるものもなく、縁に催されれば
いかなる事もするというのが法の意味でもあります。

しないのは自分が良いからでもなく、ただ縁に触れないだけ
こういう話が一番分かりやすいであろうとも思いますが、
なにを言っているかというと、結局、悪いこと、例えば他の
生物の命、を奪うのはそういう縁があるからであると、
しかしペットを食べるという縁はなかなかにありませんで
そういう事をする人はいませんよね。

これは自分の善し悪しに関わらず、因縁で全て決まるという
実例でもあります。しかし、殺因は殺果を産みます。
また、そういいますと、やり返してやると負けないという
ことをいう方も居られたわけですが、どちらにしても
縁ということがきっかけで愛したり、殺したりするわけです。

たまたま、愛らしいと思った者が生き残り、それほどでも
ないと思うものは殺される運命になるわけです。
これは私達がコントロールしているわけではありません。
どうにもならないわけです。家畜として生まれてきた動物達
や食用とされる植物たちの命は私達を同じであるというのが
一切衆生という言葉に収まるのですからね。

つまり、今は、ちょうど罪を犯すタイミングでありまして
勝つ側に立っているわけです。これが臨終を迎えますと
負ける側に立つと、また負けないといわれますが、この家畜や
植物達が勝てる要素はどこにもないわけです。

そしてそれを償う術があるとして、それをする心があるかと
言えば、全く持ち合わせていないのが自分であります。

自分の自性を観察すると、ここで良いものであるはずがないと
生きるためなら、いくら殺しても命を奪ってもなんとも思わない
残虐なことをしなくては生きてはいけないわけです。

さらに食べ物の番組などをみていると胴体が半分動いている
活けつくりなどということを喜んで食しているわけですから
また、植物にしてみましても同じで、命を奪っているわけです

殺される側に立って、客観的に見れば、地獄の鬼の姿
またそれが返ってくるとなれば、その先はどういう報いを
受けうるかという事になるわけです。

この悪の自性をさして、魂という言葉があてがわれ
鬼と云うと字にあらわす。その悪の自性が作る因は
悪因でしかありません。さらに受けうる結果はすべて
悪果となると結論付けられるわけです。

さて、この悪果、悪因いつから造っているかといいますと
終わりのない過去いらいとあります。つまり今から
さかのぼって、終わりのない過去から今までずっと
悪の自性で悪果を造り続けてくるわけです

さらに今現在もそのままです、これを変えるには
自分の自性を変化させねばなりません。

悪性さらにやめがたし、こころはとつづくわけです。
いずれの行も及びがたき身なれば地獄は一定すみかぞかしと
なにをしても自分の悪の性分が変えられないと

それで、さらに云えば、無常の風きたりぬれば今すぐに突然死
するかもしれない私達。

この地獄の話は本当に恐ろしいものなのでありまして
聞くだけでも怖い、話すのも難しいのだそうです。

聞くものがすべて聞き、話すものが全て話し、書くものが
全て書いたなら、その場で死ぬとあります。

みんな嫌がるのは当たり前です。しかし、私が思いますには
その恐怖の原因は、自分が作っている悪果の存在にあると
思うのです

これはそれを示す経で 修因感果の道理があります
悪因は苦果を感じ、善因は楽果を感じると
つまり、自己の感覚で、死ぬのが怖い、なにかわからない
けれど怖いという人がいましたら、それはあなたの造った
悪果がもたらす結果をあなた自身が感じているかもしれない

その可能性は誰しもが否定できないものなのです。
もしそう思うのならば、怖いのならば、阿弥陀如来に
その悪果を片付けてもらいましょう。

それが当てにするということなのです。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 そうすれば、この
どうしようもない世界から 仏世界に生まれさせ

仏にするという誓いにほかなりません

南無阿弥陀仏。

たのむという言葉

古語辞典を引きますと、たのむとは、
頼むと恃むという言葉が古来よりあったようです。
さらに、まかすとは、任すということになります、
つまり、意味は似ていますが、
力を当てにするという意味が一番近いように私には思えます。

御文章を見ますと、
助けたまえとたのみもうせば、
やがて御助けにあずかるとあります。

助けたまえとたのみ、ここは細かく考えますと、
助けてくださいと、阿弥陀如来の力を
当てにする事があれば、やがて、
御助けにあずかるという意味であろうかと思います。

これは私の実体験から則してみましても、
また他の人の経験からいたしましても、
そんなに不正確な感じではないように思います。

後生助けたまえとたのむたのむ一念 
ここに阿弥陀如来の力を当てにするという意味に置き換えてみます、
 後生助けたまえと阿弥陀如来の力を当てにする 
また 阿弥陀の如来の力を当てにする一念が肝要と
いろいろ諸説あろうかとは思いますが、
私達はなかなか助けてくださいとはいえないものですね

2011年9月3日土曜日

また、思い直して書き足してみる

今日は、今まで、自分のことばかりだったので、
阿弥陀如来について、
少し想うところを書いてみます。

いつも、私の中にいて、穏やかな光を放ち、
私を包み、癒し、慰めてくれます。

私が自分が感じ入ることの1つに、自分の悪業のこと
があります。みな、自分が悪いと思えといわれますが
みんな悪いじゃないかと、そのとおりです

自分以外のみんな悪い、悪いことというのは、法律的に
道義的に悪いというばかりではなく、仏の目からみた場合
悪因というのは、自分の身に悪い結果が返ってくるかどうか
悪果が実を結ぶかどうかという事です

それは誰も肩代わりしてくれない、悪果は自ずから受けないと
いけない。それが自因自果、自業自得という言葉ですね

しかし、他力本願はその理を超越します

自因他果、自業他得。他因自果、他業自得です

何がいいたいか、それは私の作った罪を阿弥陀如来が引き受けます

それが前段、そして後段は、阿弥陀如来の作った本願によって成仏します

この因果の連鎖から抜け出し、仏になります。

厭離穢土、欣求浄土 南無阿弥陀仏 度衆生心は願作佛心

ただ念仏せよ、必ず救うと。私の罪を引き受けて、いくら苦しんでも後悔しないと

阿弥陀如来の誓いがはっきりと宣言されているのですから。
私の怖い罪を全て引き受けてくれた、如来に有難うございましたという日々です。

2011年6月18日土曜日

つづき2

そうなれば、いかにすれば、私を救うことができるかということをすでに
用意してあるわけです。私の方からは決して望んでたのまないから

向こうの方から、助けさせてくださいとお願いされているわけです。
私は自分からたのんで、救ってもらったんではないです、向こうから
お願いされていることを教えてもらっただけです

そしてそれに導かれただけだという事です。

願いなんです、仏の願い、阿弥陀如来のあなたを救いたいというお願い

しかし、次に苦しみの世界はない、自分は悪くないと頑なにいう自分の
本性といいますか、性格ゆえに受け入れらないだけです

でありますから難しいと説かれているのです。

私の性格が難しいんですね、しかしそれは必ずおこりますから
とても不安で仕方ないということになってしまうわけです

悪因は悪果を感じ、善因は善果を感ず。修因感果の道理です

悪果を自分で処理するか、仏にすべて任せるかという話なんです

それで悪果を仏に任せるというのが南無阿弥陀仏の本当の意味ですね

まかせるという言葉だけでは少し不十分であるかのように思います

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

つづき1

私もこの話を聴いて、即座に否定している自分がいました。
死んでから、自分がつくった種が実になって自分に襲い掛かってくる

そんなことをにわかに信じられるものではなかなかありません
しかし、この話を否定することも出来ませんでした

奪う命も自分の命も同じ命、そして、その命を奪わないと生きられない
ということは相手を殺さずにはいられないわけです。
これは自然におこっていることです。避けようがないんです
私たちはそういう世界で生きている。他の生き物も同じ

避けようがありません。また次の世界で苦しみを受けるのもまた避けようが
ありません。これも他の命も同じ。そうすれば、この世界から苦しみの世界に
たたき落とすという残酷なことを日々しないと我々は生きてはいけないわけです

そして、苦しみを永く受けた後に、偶然、盲目の亀が大海原で流木の穴に頭を
出すくらいの確立で、人間に生まれると説いてあるわけです。

そして、自分の欲望の為に生きて、そのようなことを全く省みることもせず
ただ日暮し、そうしてまた元の世界へ皆帰って行くわけです

それを痛ましい、苦しいだろう、かわいそうにと、私の罪をどうにかして肩代わり
したいと、永く永く苦しみぬいて、私には到底できないものすごく大変なことを
して、救う力を身につけた仏が阿弥陀如来です

しかし、我々は因果などない、罪をつくっているけれどそれを受ける世界などない
また、自分はそれほど悪くはない、こんなもの必要ないといってはばからない性格の持ち主
なんです。ゆえに救われないのです。

何が難しいのかを考えてみる

まず、よくいろいろなことが経典に書いてありますが、ふと思ったことがあります。
因果深信ですね。これは機でも法でも、また輪廻でも業論でも
、なんでも後生の一大事でも

すべてこの理によって説明されているわけです。
ここが深信となれば、すべて解決することに
なるかと、結局この理から全て導かれるわけです。 
そして信じないでいる自分の頑張りは
この理をないものとして考えることから始まるのではないかとも思うわけです。

ふとそう自分の書いたものの中にこれがないと思い、書いてみようと思い至った次第です。

これは私が聴いたことからそのまま記憶と自分の印象によるものをそのまま書くつもりです。
まず、良い種と悪い種がある。そして、良い種は良い実をつける、悪い種は悪い種をつける

だから、良い種をまけば、良い実がなる、悪い種をまけば悪い実がなる

これは世のならいでありますが、
教えてもらったことで私の考え想像し心に映ったことは
種が土のなかに埋もれ、芽を出し、実をつけることは、
誰が決めたことでもなく、自然に起きます

この自然になにもしなくてもおこる出来事として、
これは自然の真理なんです。これは目に見えます

そして経典に書かれている因果の道理も同じように、
自然に起こることなんです。
悪い良いと常に自分の受ける因、そして未来の果これです。
結局この果自体は悪因であることは

誰でもわかることです、日々命を奪いながら過ごすわけですから、
自分もその動物であった時があると
説かれているわけですから、その奪った命と自分の命は対等なんですから。

そしてそれを省みることのない恐ろしい自分の魂が悪因をつくることはまた、
それが主であることは
誰にでもわかることなんです。 
そしてこれからがよくあることで、この因果がないと思っているから

たのまないんですね、因果があると思えば、
つまり自分に果が返ってくるとおもえば、とんでもない
大きな爆弾をそしていつまでも減ることがない罪を抱えているとなれば
おのずからその罪を仏が
すべて消すと自分が肩代わりしてくれるというのですから、
お願いしますというだけなんですが

それが出来ない、それは単純に因果の道理がないものであると思うからにほかありません。

2011年5月25日水曜日

つづき5

つまり、阿弥陀如来をたのむということが厭離穢土、欣求浄土と生死を抜けたいと思え

これが欲生我国摂取不捨 になるわけです 度衆生 つまり、私を渡してくれる生死のループから

抜け出させてくれる。仏にまでしてくれるわけです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

さぁ あなたも南無阿弥陀仏

つづき4

そこで生とは悪因をつくる世界、死とは悪因を受ける世界ですが、

これが逆転で考えますと、悪因を受けたことによって悪因をつくる側になることが出来る。

繰り返していますよね、グルグルと。悪因悪果、自因自果です。これが永遠に続くというのが

仏教なんです。そしてその悲惨な世界からの脱出が解脱なわけですよ

生死から抜ける→解脱 輪廻→生死 生死からの解脱→成仏なわけです

つづき3

さて、自分の心はどうでしょうか、昨日奪った命に反省と懺悔と謝罪をし、いちいち殺されて

そして命をとってすみませんでしたと謝るひとが一人としているでしょうか。

そういうものではありませんね、全く記憶に残っていない、悪いことだという認識さえないですね

しかし、これが人間同士ならどうでしょうか、子供のほうがおいしいといって喰うとか、生のほうがウマイ
といって喰うなど。またそれは植物でも同じことです。命がある以上痛みがありますから

一切衆生というのは私達人間だけの話ではありませんで、全ての生きるものが入っています

実際は残酷な魂をもっているのですが、その事実を認めると何も食べられない、おいしくない

いろいろ理由がありますが、鬼そのものなんですね。

つづき2

それで、因果より何が見えるか、つまり何か行うのには因縁があり、

その果、因を変えることは出来るけれど、それを変えなければ

その因果は続くということです。つまり、殺因殺果はその殺すということをどこかでやめれば

その因は変わる、また自分の命を差し出して、また奪わなければ

それは消える上にまた善いことになると。しかしどうでしょうか、そんなことが出来るわけがありません

結局我々は逃げられない世界にすでに生きている証に命を戴かなければ生きていけないという

現実があります。それが自分に返ってくるという世界があるというだけでも大変なことなのです。

つづき1

因果では起こりうることは必然でそのループの中にいて、

運命というように命を運んでいる。運ぶ命と運んできた命があると。

全て因果関係があり、偶然ということはないというのが、因果論です。
袖振り合うのも多生の縁と。多生とはなんだろうか

多く生まれたか生まれるに違いありません。これは因縁のある相手だから
袖がすりあうのだという諺です

つまり、その袖がすりあった相手は、あなたの親や兄弟だったかも知れないという意味なのです

何回も生まれ、死に、魂を運び、肉体を替え、始まりのない始まりから今まで、生き死にを

繰り返してきたということになります。そして、無数の命と縁を結び、命を奪いながら生きて

そして、死んでゆきます。これが運命というものであります。

因果の道理でよく頻繁に出てくるたとえに食べ物の話があります

これを食すということはその命を奪うことである。その命を奪う因はその命を奪われる果になる

しかし、実はその因は実は自分の命が奪われた因により、その命を奪う果を受けたものである

こういう理屈であります。

また久しぶりに書いて見よう

ここでは一人で一人ごとばかりをつづっていますので、

誰か信心を得られるきっかけになるやならんかですが

自分の体験を鑑みて何か書いておこうと想うときに書いています。

因果と生死と繋げ、業と輪廻もつながり、それぞれが別々ということには

なりません。基本仏教は生死をへだつ存在、生死を超越した存在になることを

目指しています。仏になることを目指すのが仏道修行であるといえます。

そのためにいろいろなことを言う人がいていろいろなことをしています。

真宗ではその仏になる種を阿弥陀如来に成らせて欲しい、成仏したいよと

言えば、そうしてくれるんですよと教えています。

しかしながら、人の心や根性はそれが現実だとは受け入れませんで、あることしか

分かりません。目の前に火の世界、業火の世界が繰り広げられ、また苦しみの世界に

行くぞといわれれば、恐怖を煽るなといわれてしまいます。

そうなるから、それが嫌だから、助けて欲しいと思う事が、念仏であるといえば否定されます

実はその原因はそういう理屈の中に実際に煽って、恐がらせて、結局解決しない信心であるからです

2011年2月22日火曜日

そこでもうひとつ

機根つたなく とは つたないとはおぼつかないとか、能力が足りないという意味なのです

これをわかりやすくいいますと、数の自然というのが因果の通りにつながってゆきます

また自性が善いか、悪いかという部分を整理してわかってもらう必要があると私は考えます

己の能力と己の自性、この二つの性質、またこの話の上に今の生きているこの世界の性質

まず因縁ということ、自性、そして、自分の能力、そして結果どうなるかという流れで

きちんと一足とびにならないで、確認する必要があると思っています

これらを確認してゆけば、自ずから結論が導かれてゆくのです

しかし、信心の相続という話になりますと、そこはある人に相続してもらう必要があります

この確認作業とでもいいますか、ここは定義ではなくして、自分のことを確認するという

そういう当然のことをして仏の話と一致するか確認してゆくだけなのですね

因果応報ときいて、おそろしいと感じなくなるまで、修因感果によって修行するか

また、自力で念仏をして、他力を体得するまでし続けるかなどありますが

なかなか辿り付ける道ではありません。 それよりは自己の姿を見て、自己の行いを見て

また、自己の生きている世界をみてどうするか決めるというのが信心に近くなる道だと

聞いたことがあります。

まず、生き物を殺す、感情のある魂を持つ衆生を殺してもなんとも思わない心をもっている自分が

います。言われたら、自然と眉間にしわを寄せ、恐ろしい形相になって相手をにらみつけている自分が

そこにいます、泣いて命乞いをするそうです、家畜は殺されるときに車に乗るのを拒みます

これは本能がそうさせるのでしょう。これはひとつの因縁だけではなくて、私の自性を現している

例えでした、そういう鬼のような自性を持っています、そして因果論という真理から、よい種と悪い種

どちらをつくるだろうか、それはこの恐ろしい自性を持つ自分がつくる本心がどういう性格を持っている

か考えることにしますと、批判され怒り心頭な自分の本性を見るにつけ悪い結果をつくるのが当たりま

えだという結論に至ります。 殺される相手が悪いという心さえ持っているのですから、相手が立場がい

れ代わり私を殺す側にまわるときが死ねば来るそうですが、それだけではありません、自分の心の性格

善い種をつくるのか、悪い種をつくるのかはその性質にかかっているのです

魂という文字は仏語でしょう、鬼と云うと書いて魂、人の為とかいて偽りです、これが私の本性です

そういいながら不快な心持にさえなるのです。

そしてその鬼と云うものがつくる因を消すにはその鬼がしたことをして返さなくては消えません

ここで能力というところがでてきます、自分の身を削って、おなかのすいている鬼に供養できるでしょう

か、私はできる人はいないと思いますが、そうして初めて、自分のしたことを償って罪がひとつ消えると

なるのでしょう。つまり、悪因をひとつ消すということさえできない者が、悪因しかつくる性質をもっていな

い魂をもっているということが、後生の一大事をうむという結論に導かれていくことになります


ここで弥陀の救済がありますということになり、この悪因を消す力を弥陀は持っています、そしてそういう性質の持ち主だからこそ、救済しなくてはかわいそうだということで修行され、念仏ができたのです


どうすれば救われるか、それは非常に簡単なのです、先の後生の一大事を心にかけてとは

死んだらなにかわからないが非常に死ぬのがいやで怖いとなるのは地獄があるからではないかという

不安があるから、それは自分が地獄という自分でつくった悪い種が自分にあるからということになります

それを心にかけて、その種を自分で処理できないから、阿弥陀様にお願いします、この苦しい種を消しとってくださいとお任せすれば、阿弥陀様はよろこんでその光の中に収め取る、決して離しはしません

久しぶりに更新してみたく思いましたので

難しい、念仏の話をここで書きつづってもまた困難なことにわからないだろうと私は思っています。

なぜなら、自分もそうだったからです。信心をという気持ちはありますが、

言葉だけ先行しても難しいのだろうなと常々感じているところです。

機根つたなくして、自力で往生を遂げられない凡夫は弥陀にたのんで往生を成し遂げるというのが

基本的な考えです、また地獄へ落ちるから、救われないといけないという定義が後生の一大事を心にかけて

一心一向に弥陀に助けたまえと たのみ申せば、往生は一定なりとあります

このたのみという古語をどう解釈するかというところがお任せしますという意味なのでありますが

ゆえに 一心一向に 助けたまえと お任せすれば という意味になるわけです

このお任せというのは先の機根つたなくして、自力で往生を成し遂げられない凡夫は弥陀にお任せして

往生を成し遂げるという意味なると考えていただければ筋が通っていく話になるのです