2010年10月4日月曜日

阿弥陀如来の行について

 阿弥陀如来の行ということについて考えてみます。
南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏をたのめという意味ですから
全てしてもらうことを指します。
そして私が何もしなくても、念仏の状態が続くことを
憶念の信と表現されています。 憶という文字は心と意と
記憶の憶ですね、念とは念仏のことですから、念仏を心に憶える
ことが常にしてですから、途絶えることがない状態です

これらを自らの力で行うことは出来ません
他力に委ねると口ではいいますが、本当にしてもらっている状態
ならば、その姿になります

憶念の信常にして仏恩報謝の想いあり 南無阿弥陀仏

この心はいつも念仏の状態にしてもらっていることが分かる
そしてそのことに感謝する気持ちが起こることを指します

よく機法一体の二種深信とありますが、この機の深信と法の深信は
同じであるといわれます。私達一切衆生の性質をごらんになった
阿弥陀如来が全ての衆生を救済すると誓われたのが
南無阿弥陀仏の誓願なのです。

全ての衆生ですから、命がある者を全て救うという事です
仏典に鳥のさえずる声を聞いて、その声は親の声かもしらんと
感じることがあるとあります。縁を結んでいるのだから
多生の縁としてつながりがあるという事です

こういったことからも仏典では全ての命は全て平等なのです
人があえて、動物、植物、虫ほか等と区別しているに過ぎません

六道の中には畜生道とあります。生き物としては違う世界で産まれた
だけで同じ魂をもっていると説かれています。
衆生が地獄に堕ちているところから産まれ、そして地獄に還るという
繰り返しであるという言い方を否定する人もいますが
その根拠を知りたいものです。
明確な根拠とは何か、私が聞きましたのは善因善果、悪因悪果
楽因楽果、苦因苦果 三世因果の道理、修因感果 自性 魂

如来の行 解脱 輪廻 厭離穢土 欣求浄土 

私が助けてほしいと想ったその時にたしかに弥陀が救ってくれた
それを感じました。今生きている世界は苦因をつくる世界
そして死後は苦因を受ける世界であると。

輪廻を繰り返し、いままでどれくらいの屍を積み上げてきたことか
その高さは計り知れないものになるそうです

私はこの世界三世全てが苦因苦果の因果の世界である限り
自ら修行して自らを済度することは不可能であると想います

阿弥陀如来は私の過去世の苦因を全て消し去り、私を苦因と苦果
の世界から仏の世界へと導き、仏にしてくれるのです。

自らが悪の塊である魂の持ち主である限り、その作るタネは
悪い実しか結びません。しかしながらこの弥陀の話の要点は
因果深信とあります。これは仏の例えでありまして
種を植えれば実がなるだろう。とあります、これはその環境の中で
あれば、自然と実が生る事をあらわしています

私が何か想うなり想わなくとも私の魂の行った因は私のわからない
因果の環境の中で自然と来世での果を招きます。
そしてそのことを因となり果となりと
なにかをしても因があり、なにもしなくても因があります
時間とともにしてもしなくても因縁を結びます
悪性ゆえにいつも因は悪果を結ぶものを作るのです

悪果はまたそれを精算したあとは悪因をつくる因になります
それが今現在の姿であるというわけです
私たちが悪因をつくるのは悪果がある証であるとはよく言われますが
その悪果がいずれどうなるかは今の行動につながります
悪果は悪因から生まれその因を消すのではありませんで
次に悪因を作る種となるのです。

私達の罪はそうやって作られてゆきます。悪性がやめられれば
その悪因を作る因を消し、善因を積めばよいのですが
自動的に生来もっている行動が悪なのです
食事、喜怒哀楽、ほか諸々です。
偽善だけれどすればよいとはよく言いますが
私は偽善だと認識してそれでも人助けを行うことはいずれ
己に返ってくるので、結局自己のためとなります
己の心を偽ってよいことをするのではなくて
自らの為になるという気持ちで行うのは良いと思います

しかし、それらの善でありましても厳然たる因果の道理から
見ますと一向に善とは生りえません

悪感情をもってはいけません。偽ってはいけません
この二つはどうしても解決できません
ボランティアの人も感謝されればやりがいがあるとおもいます
しかし不足を言われれば腹が立つでしょう。
これだけで悪因と生ってしまいます

自らの魂といいますか自性を変えなければその因は変わりません
それで初めて修因感果となります

つまり善をおこなう為には自らの自性を変えなくてはならない
己の自性さえ分からない者がどうやってそれを変えられるのか
ここで非常に難しい能力的な問題が出てきます

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