2020年8月21日金曜日

厭離穢土のこと

 厭離とは厭い離れること。穢土とは穢い土のことです。この話を自分のことを中心に考えてみます。 穢土はきたない。何故きたないのか。それは死体だからです。基本的に死体が中心の世界を穢土というのです。浄土には死体がありません。仏になれば死ぬということがないからです。成仏すれば死なないので穢土になりようがありません。私たちの世界を振り返ってみれば、まず土は死体の塊であるといえるでありましょう。どれだけ科学が発達しようともこれだけは変わらないことでしょう。死体が基本です。死体の栄養を食べているのです。石油も死体であります。死体まみれの世界、自分の死体を過去世から今までと考えてみたら、どれほどの死体を積み上げてきたのか想像もつきません。他の者の死体と自分の死体。殺した者の血肉を食べなくとも、死体から取った栄養を食べているのですから。自己も死体になるのです。それも必ず。自分に縁がある衆生を殺して食べ、自分が来世で殺されて食べられる。自己の身体も無数の生命の死と生が繰り返されることにより、生きていくようになっています。自己が死ねばまた新たな身体になり前世の行いの報いを受ける。因果応報です。何が言いたいのかといいますと、自分の信心においての決め手の一つなったのが正にこれです。死体の世界と殺し殺される世界。究極はこれしかない。殺すか殺されるか。だれかの栄養になるか栄養にするかしかない。食うか食われるか。やるかやられるかしかない。世界をよくみると佛のほうから見ると穢い世界を好き好んで堪らないのが我々です。がしかし仏の智慧により穢土と知らされる。死体にするか自分が死体になるかしかないのですから。悲しい運命を永遠に繰り返すしかない。繰り返してきたのですから。はっきりと言葉が繋がります。生死を厭い離れるのが厭離穢土です