2018年8月15日水曜日

帰命無量寿如来 南無不可思議光

帰命無量寿如来 南無不可思議光 無量寿如来に帰命せよ 不可思議の光を
たのみ。 私が信心の話をしていただいたこと。その記憶をたどりほかの人が
信心を得ることがもしもできたならと思い 書き綴っています。しかしながら
経典は口授を基本としているかのようにも思え。どうかなとも思いますが。
厭離穢土 の穢土について考えてみるとですね、まず穢土とは汚い土という意味です
これは死体が土に還ることからも 土は死体の山そのものです。浄土には死体はない
死ぬものがいない。殺したり殺されたりはしないわけです。自分がこの法を聞いて
まず分かったのは自分が残虐なことをして顧みないということ。自分がしている
ことをつぶさに見て取れば、悪いことしかしていない。なぜならば自性が悪であるから
悪性により因果は悪因となり悪果を得る。そう鑑みてみれば、悪因しか作ることが
出来ない世界で悪因しかつくらないから、どうしようもなくて、どうすることもできない。世の中でどんな評価を受けたとしても一度生を受ければ必ず殺す縁を結びます。
なにか生き物を殺さずに生は送ることさえできません。因果とは輪廻と結びつくのであって。因果深信とはすなわち、この世界が終わったらですね、来生、再来生、再再来生と
延々と因果の道理によって、殺されたり殺したりを筆頭にいろんな世界にうまれかわり
たちかわりして、いろんな目に合うということです。この世界にいる限り、因果と輪廻により、苦しみから逃れることはありません。苦の種をつくるか、苦の果を受けるかしか
ないのが当たり前の世界にいて、快楽を求め続けるのが私たちなのです。真実の快楽は
一つとしてないのにもかかわらず。楽しそうに苦の種をこしらえている。死んだら天国に行っていると思い込んでいる。死ねば仏になると。念佛もせず、信心も取らずに。
もともとは聖道門の教えは菩提心という悟りを得るのが目的でした、そして修行をして
菩提心を得、仏になるという道を目指すのです。そのために修因感果という道理によって
修行をして因をおさめ善い行いをして善い結果を感じるまで修行しなさいとなるのです。
それを愚直にやったのがかの親鸞上人となるのですが、結局はできません、お先真っ暗ですと法然上人のところへ行きます。そうしたら、そのことを教えてくれたのが仏様であると、なんにもできないことに気が付いたのは自分の力ではない、それも他力であると。
この修因感果こそ真宗の神髄であり、すなわち感じることができる、自分の行いの結果は
どうなるかわからなくとも、感じることができる。恐ろしいと感じるということはすなわち悪業をもっているということに他ならないのです。そして無常の風に吹かれ、その悪業もろとも落ちていく可能性があるのです。おそろしいと感じるのが後生の一大事なのです。つまりはなぜ恐ろしいと感じるのか、それは自分の行いが悪いからです。良いことをしていれば楽しいと感じるのです。この仏説から後生の一大事につながり、悪業を消して
もらうとかそういうことになるのです。だからまず頼めとたのめがやがて信心を向こうから授けてくれると、念仏して恐ろしい来世の悪業を消してくださいと念仏してくださればよいのです。たのむ機にやがて信心を与えるとあるのです。とても簡単なのです。
だれでも恐ろしいはずなんです。恐ろしいのは悪業を持っているからです。だからタノムのです。すればすぐに答えがでるのです。私は強情でしたので、なかなかたのめませんで
結局は解脱という理からそのきっかけになったのです。因果の世界から出してもらえる。
仏にして出してもらえる、その餌についたんです。なんでもいいんです。仏にして仏の国に生まれさせてくれるんですから。悪いことしかしない私を。恐ろしいことをして知らんふりすることしかできない私をです。代わりにどれほどの苦しみを積んだのか想像もつきません。私一人のためにどれほどの苦しみを背負ったのかわかりません。ただ念仏するとそう思います。南無阿弥陀仏 弥勒菩薩はこの星で仏なって生まれます。弥勒の名を聞けば地獄には落ちません。しかし仏をたのんでください。どうか

2018年5月13日日曜日

五劫思惟の願を

念仏とは何を指すのか、一念帰命、信心を発起せよ。
生きて、死に、次の世にうまれ、またその世界で死にと
つまり、生まれ変わり、死に変わりを繰り返す。
常没と善導大師は説かれ、早い話が常に、三悪道に落ち
因縁が尽きるまでその場に留まり、なにかのきっかけで
人となり、また死んでゆく。仏の世界から見れば、この世界
は因縁とその縁果に縛られて、どうすることもできない苦の世界
1つ殺せば、1つ殺され、今殺す因縁は今後は殺される
果となる。その姿を等活地獄に描かれている。
その身に宿る因縁を宿業と呼ぶ。身に宿るものだから
業因の業とはもともと、行うという意味があります。
業と言えば仕事をイメージしますが仏教で業と言えば
行いを指します。因果論はとても難しいのですが
その論理よりは、身に宿るものが有ると説かれているもの
つまり、日々生きていくときの殺果や悪いおこない
それが来世において、自分に返ってくる。ここで脅す
地獄秘事であるものとかいうのですが因縁果は身に宿るもの
であると御釈迦様が説かれているのですから
それは当たりません。自分の行いが良ければ良い結果
が悪ければ悪い結果が身に宿るのです
そして、それを感じながら修行するのが聖道門です
修因感果と言う言葉があります。それを行なったのが
親鸞という人です。わたしは良い行いをして、経文に
書かれているように修めて行いをし、良い結果つまり
来世において、いい結果を生むように努力したのですが
何にもできません、心は正直にならず、愛欲は尽きず
心の残忍性も治らず、良い結果を感じることが
できません。すなわち、私の行くところは地獄なのだと
かの聖人はおっしゃっています。つまり仏教の身に宿るものを
どうにかして、という見地からみても普通の人のように
見えませんが、いまの真宗は念仏を唱えれば良い
そう言うのですが本来 念仏は仏の行、なのです
仏が念仏をして、それを頂く。仏の行をたのむ中には
宿善と説かれています。真宗の究極は宿業を宿善の力で
消し、宿善の力により仏にしてもらうとあるのです
凡夫の口称の念仏は弥陀の名において功徳がありますが
本来の目的は宿善。この宿善は仏の行。すなわち仏が
身に宿る。これを信心と
どうすれば、仏が身に宿ってくれるのか。これは親鸞
聖人がやったように、自分の行いを見て、そして
次の世に何が返ってくるかを考えてみたら、我が身に
宿る悪業はとんでもないものなのですから、とてつもない
恐怖心と嫌悪感でいっぱいになるはずです。
それをすべて代わりに、消して来世において仏にし
仏の国に生まれさせるという行を阿弥陀と呼ぶのです
その行をたのむことを、南無とつまり、南無阿弥陀仏とは
阿弥陀如来の行をたのむこと。そして念仏は仏の方から
賜る、身に宿る行として、消えず、なくならず、すてず。
欲生我国 摂取不捨 です。わたしはこの修因感果の道理
から来世の果を弥陀の行によって消してもらう。
早い話が、来世が怖くてしかたないなら、弥陀の行を
頼む 仏が代わりに念仏をしてくれるのです。
仏の行を貰う。これが究極です