2017年10月3日火曜日

人が仏になろうと願い阿弥陀佛を念ずるならば

人が仏になろうと願い 阿弥陀仏を念ずることを発心というのでしょう。菩提心を発心させてもらう。仏になろうと願いというところがとても大事です。仏様はなかなか面白いことを言っておられます。功徳には限界がない。罪業には限界がある。過去世、来世
現世とありますが、来世がつらいのは誰しも嫌なので、浄土を願うこころがあると。輪廻流転して出られないのは自性が悪だからです。うまい、まずい、というこの自性殺因殺果なのに、因果をないものと思い切って。うまいなあと殺していう。この自性の持ち主のいく果てが地獄なのであって、その地獄で苦しみを清算したら、また人間やその他もろもろの衆生となって生まれます。その屍を積み上げたら世界一高い山をもっても全然足りないと。衆生はほぼ悪性をもっています。そしてお互いの因縁によって苦しみを与えあうのでしょう。厭うべきはこの娑婆世界。望むべきは極楽浄土。仏になるのに阿弥陀如来の力をタノムことを念仏。南無阿弥陀仏。来世はつらいはずだったのに。罪罪業をすべて消滅さえていただいて。この娑婆世界からおさらばして、仏になって生まれられるとは何とありがたいことかと。阿弥陀如来の力は果てしないですが、罪を滅し、仏と同体の姿に往生させる修行をしたその行を阿弥陀という。阿弥陀とは行なのです。ほとけの忍終不悔の賜物。阿弥陀の行をたのむ、たのむことを南無という。南無阿弥陀仏とは仏の行をたのむということです。それは人が仏になろうと願い、阿弥陀佛を念ずることです。南無阿弥陀仏。願わくばもろもろの衆生とともに往生せんことを。一人でもこの仏の願いにかなうことを。そこまでいかなくても縁を結ぶことを祈ります。南無阿弥陀仏

2017年2月26日日曜日

何を知ればよいんだろう 常没流転の身 出離の縁なき身

今日は輪廻転生について考えようとおもいます。
常没流転 常に没する これは解脱ができない。自力ではこの因果の世界から
抜け出られることがないという意味を指しています。
輪廻とは転生を繰り返すことをいいます。
因果の世界の中でおいて 悪因縁にしろ 善因縁にしろ どんな因果を
積み重ねたにしろ この世界から抜け出ることはできないのです。
釈迦如来のいう修行を行い 菩提心を得て悟りを開き 仏の位に立つまで修行
あるいは阿弥陀如来の修行した果をいただくか どちらにしても仏の教えで
しかこの世界を離れ 違う世界に生まれることは叶わないのです。
私自身を振り返ってみれば あれが旨い まずいという 精神の持ち主です
新鮮なほうが旨い 活きのいいほうが旨いといって食べているその心のどこに
慈悲があるといえるでしょうか 悪性は身に備わっています つまり修行もできない
何にもできない身であれば つねに地獄にいくか つぎもまた幸運なら人間になる
可能性もありますが 仏の国に生まれることにならなければですね くるくると
沈む 沈むというのは地獄に落ちるイメージもありますが 断定できないですから
つねに 仏の国にうまれることはできないということを言っている。ということで
はないかと思います。
信心とは欲生我国 摂取不捨 という仏の願いにかなう そのお礼が念仏である
真の念仏とは如来と同体になり 如来が私の心の中にはいり 何もしなくても
声に出さなくても 一声も出せなくても 勝手に代わりに念仏してくださる
私の心の中で絶え間なく 途切れることもなく 寝ても覚めても 四六時中
信心とはそういうもの 菩提心をいただく 悟りを開く事ができない身でありながら
仏種が身に宿る 宿った信心が宿善なのに 念仏を称えることが信心であると
これは邪なことであると考えます。 自性が悪因縁を積み重ねることしかできないと
宗祖が言っているのにも関わらず 称名が真因であるかのように説くのはおかしい
称名も弥陀から賜らないと真実ではない。 なんまんだぶと何万回となえてもそれは
信心とはいえない。 そうなら なんまんだぶ ととなえなさい だけでよい
あれやこれや なんもいらん そんな話ではないと思う 自性を知り 仏の国に生まれたいと願う 欣求浄土 厭離穢土 欲生我国 
で何を知ればいいのかと 私は思ったのはやはり 輪廻するということと 自性を鑑みれば 死体の山を築くしかできないと 殺すか殺されるか もっと鑑みれば苦を受けるか
与えるしかない 楽といっても苦から逃れない 因果と生死は繋がっている。
つまるところ 浄土にうまれ仏にならなければ 苦から逃れられない。
だから 願う仏に苦をなくしてほしいという 仏の肩代わりしてくれた行に
自分の苦の消滅と次の生で仏の姿にしてほしいとタノム
この形を南無阿弥陀仏という。 仏はすべて肩代わりしてくれる。輪廻を解脱させ
仏の国に仏として生まれさせてくれる。
諸苦毒中 忍終不悔 私のために苦しみの中に飛び込み 無量の間苦しみぬき
私のために なにもかも 苦しみを消し去り 仏の種を私に宿らせた
そして この仏はすべての衆生を救うと ただ私の国に生まれたいとおもってほしいと
ほんとうに助けてくれる 私の苦しみの種をすべて 消滅させてくれる。本当は
修因感果の道理より じぶんでひとつひとつ消していかなくてならないのに
全部消し去ってくれる。 仏の国に生まれたい 苦しみの種をとってほしいと
さらにその上信用する度量も持ちあわせていない 私のために向こうからお願いされている。助けさせてほしいと 仏が頭を下げてというかへりくだってお願いしているのです。
どうか受け取ってと信じる必要もないと。 ただ恐ろしいでしょう 死後のことが
本当はね私が思うにはこれが仏の力ではないかと思うのです。 死後恐ろしいと感じる
感性は本来ないのに 思うのはその力ゆえに後生を気にかけ 仏の国に生まれたいとおもうから 目を背ける自分に対して 恐ろしいと思うのは仏の力かなと 苦の種をもっているのですよと 仏がおしえている。 私に消滅させてほしいと仏がお願いしている。
そして苦のない世界に生まれさせると。その根拠は私の修行ですと さてその行を阿弥陀といい それをたのむことを南無という そして回向は如来から 一念のあとは憶念の信となり 決して私がボケようが 気が狂おうがなくならない信として向こうが常に私のこころのなかに宿ります。私は阿弥陀如来を忘れることは決してありません なぜなら
宿るからです。 仏の行をたのむ 他力信心のゆえんです 他力といいますが決して
離れるものではありません。 私は難しい話はいらないにしても 怖いと感ずるのは
仏の力ですから 怖くなくなればよいのです 怖い=苦の種をもっている
苦の種を仏に消滅しもらう=安心 となります 苦の種を消してくださいとたのむ
一回だけでいいのです 簡単です 怖くなくなるようにしてでもいいかもしれない
かの国に仏となって会うことを 願います 弥勒菩薩の名前を聞くだけでも地獄に落ちないそうですが。往生人になるには仏の力をたのむほか ありません。