2010年1月29日金曜日

念仏

 今日は安心決定ショウから無為のこと
無為とはなすことなしと書けりということであると。
称えても、また称えなくても、失うことがないと。
それは、阿弥陀如来の念仏が自信になれば、
その念仏は自分の中に宿るのです。
それで信は尊いと思うのですが、自分は何も分からない
のですが、単純に助けて欲しいと念仏すれば助けてもらえる
ものをその功徳をもらおうとするとややこしくなるんですね。
自分の称名で助かろうとするのは自分の力です。
機の扱いをするは雑修の失です。
自分のしたことの自覚は少しでもあれば、それを消してくれるのです。
何もかも消してなくなってしまうのです。そういう不思議な力に
まかせるのです。そうすれば分かるようになると思います。
書いても伝わらないのかもしれない。でも一人きりでも、
如来の願力を信じて、その清浄な心を身に受けることができれば
かならず分かります。自分のことが悟りを開いたよう分かるように
いう人が多いですが、分かるとすれば自分が悪いことをしなくては
過ごしては行けないということだけです。つまりは何も複雑ではないです。
自分の本性が悪魂なんですから、その行いは悪果のみ。ならば来世はと
このことを自己否定から導くのは精神がやみそうですが、別に全部なんですから
そんなに追い詰めなくてもいいと思います。
逃れられる術はないから阿弥陀如来が仏にしてあげるという誓いが
あるのです。阿弥陀如来がしてくれたことが原因になるのですから
その力を信じて任せるしか方法はありません。
しかし愚かな私は自分しか信じない、信じることができなかった。
それで自分の行動を1つ1つ確認してみたら、自分に悪い結果しか
かえってくるはずがないと気づいたんです。毎日の殺生にしても
悪いと思ったことがない。むしろ新鮮だといってあたらしい命
を求める。これは単純に分かりやすいのでよく例えに出されます。
しかし本質は食欲が原因で、また食べることも実は因果と縁で
決まっているということです。殺す相手は決まっているんですね。
そしてその相手も自分と同じであるという事が恐ろしいことです。
立場が逆転したら嫌です。がしかし、この一生で殺した魂と因縁を
持っているんです。それはそうとして殺した相手にどう思うか?
ここで自分は謝ると返事したんですね。でも自分が殺されたなら
謝られて許すのかということです。因縁とはこういうことを意識しな
くても避けて通れないことにこの世界の悲惨さがあります。
良いことをしてもぜんぜん足りません、焼け石に水。殺しておいて
白々しいことをいう自分がいます。自性は欲の塊でしかない。
つまりは欲が原因というよりは自分の魂は鬼と云うと書いてあります。
地獄絵の鬼は今の自分なんですね。殺される方からすれば。
来世ではそれが全部かえってくる、それも終わりのない過去から
この魂でつくってきた因すべて果になってかえってくるのです。
そして前の世界で作っていた因は自分に宿っている。受けた果も
宿っています。複雑な因果について知る術はないですが。
こういう話をすると地獄の話にみえますが地獄について
それを見たもの、聞いたものまたはそれを絵に書いたもの話した
ものはその場で体中から血を流し死ぬそうです。
ですので大海のなか1すくいの水くらいしか説かれてはいないそうです。
恐ろしいという表現では足りないくらい恐ろしいですが。阿弥陀如来は
全部罪、悪業を消してくれますよ
出離の縁あることなしとは、自分の魂が悪いことしかできないということ
ではないかと思います。そういう因縁しか持つことができないんですね。
よく思うのですが、機の深信に徹底すればとありますが、自分のことを
全く悪く思えないのが本能のなせる業です、全く悪いのに全く悪く思えない
からこそ、冥とか妄ということになります。迷冥ですね。そうなのに
無理に自分は悪人であるとか悪人の告白をすることに矛盾があります。
分かるのは、それが事実だとしたらどうしようもないということです。
自分のしたことがかえってくるとしたらそれを消してくれる力にたのむ
ということですね。自分は悪人であるという告白ができればいいですけど
先にそれを目標にすることは危険極まりないことです。
まずは自分の生活で自分の欲と魂について内省すれば、何1つ自分に
とっていい結果が返ってこないという事は明白です。
自分さえよければいいということはどれほどの罪をつくるのか
日々そういう魂が意識無意識関係なく因を作ります。全部かえってくる
それが後生の一大事ということです。
終わりの無い過去から今まで自分の魂がよくなったことはあるのだろうか
そのあいだいかほどの罪をつくってきたのだろうか。
それを思えば地獄は自分の住処であったという告白も自分の姿と重なります。
今生空しくすぎて今の罪を償っても因果ゆえにまた同じ罪を作り続けます。
増えることはあっても減ることがない。そうしていままでやってきたのです。
結局自分の告白しかできませんからそれだけをするしかないのです。
自分の罪深さ、悪人であることに気づかなくてはいけないというのは一見
正しいです。それに気づけば確かに信心をえることができるでしょう。
しかしそう思うほど自分の本性は甘くないんですね。むしろ善いことをしている
と思うほうが気持ちいいのでそう思いたくないからそう思わないんです。
その結果は阿弥陀如来の力を利用しようとしこそすれ、頼らないんです。
結局は断ってしまうんですね。仏自身が難しい中にも難しいという事をいうのは
自分で自分をだます性があるというところです。ですので大変な目に遭うという
ことを知らせて自分の力をたのんでくれと向こうからお願いだから助けさせて
ほしいという姿になって現れてくれているんですね。ですのでどうすればいいか
とよく聞かれたりしますと任せたらいいとしかいえないんですが、言葉足らずかも
しれませんので阿弥陀如来を信用して任せるということです。
簡単すぎて信じてもらえないんですが本当にそれだけ。
やがて大善、大功徳を与えてくれる。とあります。
しかしながら信じていなくても自分の罪を消して仏にするという話は最高
だと私は思います。 念仏とは 阿弥陀如来に南無すること
南無阿弥陀仏の一念は胸に咲きます。一度だけ自分のために阿弥陀如来に
自分の罪を消してもらっては如何でしょうか。 

2010年1月26日火曜日

一念帰命

 御一代聞書に
帰命というは
弥陀を一念たのみまいらす意なり
総じて罪は如何程あるとも
一念の信力にて消し失いたまうなり
無始巳来輪転六道の妄業、
一念南無阿彌陀佛と帰命する
佛智無生の名願力に滅ぼされて、
涅槃畢竟の真因はじめて萌すところを指すなり。
難しい表現ですが完璧に書いてあると思います。
ちょっと自分なりに見てみようかな、間違えているかも
しれませんがね、罪がどれくらい深くても
一念の信力にて消えてなくなってしまう
終わりの無い過去から今まで、色々に生まれ変わり、
その間につくる業
による果報を阿弥陀如来をたのむ一念による
信の力に滅ぼされて
信心がはじめて芽が生まれ、
信が宿るところを指すということである。
自分の持っている宿業がどれくらい恐ろしいものかは
個々人が感じていると私は思うのです、
何も分からなくても、ただ恐ろしければ何か持っているかも
しれません。もしもっていなければ、救ってもらわなくても、
別にいいでしょう。
しかし、何か恐ろしければ、
なにかとんでもない結果を身に受ける
可能性がありますよ、
これは経典に書かれていることです。
後生とは死んでからまた、
終わりの無い過去からもっている妄業を自分の
身に受ける世界が待っているという事かもしれません。
断定しないのは、それは私のことではないからです。
妄とはおそらくは
それが自分に返ってくることはないと
信じているかまたは、
分からないからなんとも思わないということかもしれないですね。
自己否定することはつらいので皆嫌にきまっています。
自己肯定するほうがいいですね。ですが、
個々人の後生の一大事について
あまりにも無責任に地獄へ行くぞと昔の人が脅す訳がないですが、
釈文には厳しく説かれていることも事実です。
今より昔と考えればその時間はあったのですし
その間自分の魂といいますか
そういう存在はどうであったかというのが本来考える
ことかもしれません。
また死後の長い間はどうなるのか、
経典にはこうすればこうなる
こうすればああなるとかいてありますが、信用する人はいません。
分からないですもんね、
ただし生きている生命はすべて仏典では平等です。
殺生のこと
ひとつでもどれくらいの因縁と宿業を持っているか
計算の及ぶところではありません。
自分に宿っている因縁をしる術はないですが
これが事実なら大変なことであることは
明白なんですね。長くなりましたが、
阿弥陀如来はその力によって自分の力によって
私が殺した命の結果受ける罪業を滅ぼして
また私のその自覚すらできない、むしろ
善い者であると思っているうえで
悪い事が平気でできる本性が産みだす欲に
よって過ごすのですから、
その結果はすべて自分につらい結果になること
も明白なんですが、
その罪業もその力によって滅ぼし、
また、そんな魂の持ち主が終わりの無い過去から
つくってさらにかえりみない罪、
身に宿る罪をすべて滅ぼし、自分と同じ仏にして
自分の国に生まれさせ、この世界から出るには、
とてつもない修行をしなくては
いけないのですが、阿弥陀如来の力によって出して
そして仏にしてくれるんだそうです。
南無阿彌陀佛 そのためにとてつもなく
長いあいだ、何もできない、むしろ悪い
ことしかしない私のために修行して苦しんで
本願を成就してくれたのでその力を
たよってくれとお願いされ、それを聞いたのでたのみました。
ただ恐ろしい、助けてほしいと。そうして助けてもらったのです。

2010年1月21日木曜日

衆生

 往生要集だったと思うんですが、記憶があいまいで申し訳ないですが、
衆生というのは、
生きている生命のある者すべてとすべてであるということです。
つまり最後のひとつの生命まで自分の国に生まれさせるという事です。
衆生という事ひとつでも私の分かり得る範疇を超えていますが、
阿弥陀如来の誓願は広大すぎて想像がつきません。
ただそのあたりの猫や犬、また虫や植物などの生命も
全て救うという誓いであります。
つまり生きている者は本来はすべて平等であると
いうことがいえます。ただ宿る肉体がそれぞれの因縁によって違うだけで、
自分が何に生まれていたのか分からないですね。そうですね、
往生要集によりますと、
大海のうえで盲目の亀が浮き木に穴があいている木の穴に顔を
出すくらいの確率になるんだそうです。
それくらい人間に生まれることは稀であると説かれています、
まずは人間に生まれたことが幸運なことです。

信の話について

 正直悩んでいます、任せる、そのままという話、
それでいいという人もいますけどね。否定はしません。
肯定もしませんけどね。信心の話は一方通行が怖いです。
一人合点でも、正しければいいですが、間違えれば
意味のないことに執着することになります。
公開の場であまり色々言うのもなんだか苦しいものが
ありますね。個人的には他の人に何かを教えていこうとは
思っていませんので、なぜこんな日記を書いているのか
自分でも分からない時があります。ただこれでいいと
早合点しないで、自分自身に対する執着心がいけないと
いうことですがこれもまた難しい。しかしながら、
そういう話にこだわるあまり、本質を見失うことが一番
恐ろしいことなんだろうと思います。ですのでこれを
もって信心であるということではないんですね。ただ
そういう意味もあるかもしれないというくらいのものです。
私には分かるはずがありません。南無阿弥陀仏

2010年1月19日火曜日

一休さん

 南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ  
 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ
 これは厳しい言葉ですが、本質をついていると思います。
 私に智慧があるならば、どうじゃこじゃいいますがね。
 南無阿弥陀仏 これはいい言葉ですよ、本当に。

2010年1月18日月曜日

まかせること2

 以前まかせるということについて、当ブログで書いたのですが、
 我ながら無責任な感じがしますので、もう少し思うところを
 書いてみようと思います。阿弥陀如来に救う力と信じさせる力
 また、仏にする力があるので、その力に任せるという事です。
 しかしながら、私の方から見ますと、その心を起こす気が無い
 それでこれからも迷い、苦しみを苦しみとも思わずに、また
 この世界から、次の世界、前の世界から今の世界、というように
 いずれのときにこの世界をでることがあるのだろう。
 阿弥陀如来の行に任せれば、自分は何もしなくても、すべて
 してくれているので、そのままでよいということです。
 阿弥陀如来の行に任せることが南無阿弥陀佛です。
 むしろ何かしらできると思うのが間違いなんですが、そのこと
 は信の上でしか分かりません。よき人の縁がありますように。
  南無阿弥陀仏

2010年1月12日火曜日

宿善と無宿善

 善が宿ることを宿善、そうでないことを無宿善といい、
宿る善とかいて信心を得る事といい、
その善は仏の心を指し、仏の心を信心といい、
その信心為本は仏の心を本とするという事でありますと、
自信教人信とは信が自ずから人に信を教えると読めます、
つまりは仏の心が自ずから人に仏の心を教えると
その仏の心とは阿弥陀仏のことであるに間違いないです。
だからこのことわりは宿善が無いと分からないので難しい事なんです。
何いってるの?って感じではないかなーと思うんですけど、
一人ごとですからね。それも夜中に書いてますしね。
まぁこれは難しいです。
かなりでも御文章はこのことを中心に書かれているので
やはり大事なことなんでしょう。
南無阿彌陀佛

2010年1月8日金曜日

今日も深夜だなー

 今日は酔ってないですが、深夜に目が冴え眠りから覚めてしまったので、
 独り言をかいていきましょう。私はよくぶつぶつとわからない事を
 気にして納得できるまで、他の人に聞く性分でして、
 うっとおしいとよくいわれます。他の人が分かっていないと知るや、
 二度と尋ねないというまた困った性格でもあります、
 何の告白じゃこれは、今宵はしらふなのにね。まぁそれはさておきまして、
 歎異鈔からですが、
 『まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、
  我も人も善悪といふことをのみ申しあえり』 
 同じことを今の時代に思いますね。大事なことです。
 ここの如来の御恩を沙汰するのがいいですかね、
 善悪という事をのみという事はそれも大事な話なんだけれど、
 如来の御恩を忘れて、何が善で何が悪であるかというような事ばかり
 お互いに言い合いしてばかりではないでしょうか。
 でも私は話をする人ではありませんけどね。
 ただ、信心為本ですから、そのほうが肝要なんですが、
 この理屈は難しいですよ。話せば長くなりそうな感じですね、
 独り言には向かないかも。なので今日も中途半端ですがおやすみなさい。

2010年1月6日水曜日

酔っ払ってます

 今日は酔っています、それでなんとなく震える手で、深夜に日記を書いているとゆう変なかんじですがねぇ
。私の今日の思いつきは、仏が仏に助けてもらえと勧められるので、それに従うのかなってなんとなく思ったんっで書いてみよーって思ったんで書いてます。それだけです。おやすみなさい。