2010年4月14日水曜日

なんとなく

 私が信仰を得たのはいまから22年前のことです。その時から今まで
心況といいますか心のうちが変化したことはありません。ただ地獄はとても
恐ろしいという事と当時まだ幼かったの自分がそのときに目にした経典で
話されていたことと経典の内容が一致することに安心感を覚えたものです。
なぜならば、自分が救われるか救われないかということはそれくらい重要な
関心事になっていたからです。 自分が地獄に落ちるといわれれば
それの理由を知りたくなるのは当たり前ですよね。それを解決する方法は
念仏ですよとなるわけです。簡単に説明しますと地獄という表現は恐怖を
植え付け脅しさらに信仰を強制するかのような印象がありますよね。
おまえは地獄に落ちるぞといわれればそうなのかなそうは思わないけど
この人は自分の利益のためにそういっているのだろうという
印象になるはずです。
人のいう事は信用しがたいものです。実際そうなのです。
ですから誰かにそういわれたら
あなたはどうなんですかと聞いてあげればいいのです。
そのときにですね
私も落ちるのですというのならばそれはまだ結構ですが、
私は救われたがあなたは
地獄に落ちますなんていわれたら怒っていいんじゃないでしょうか。
そんなことを言う権利はだれにもないですからね。
この法は助かる術は私たちにはないと説かれているのですから
その結果仏の力を頼るべきであってその他に選択肢はないということです。
自分の因を自分で知って自分で悟って自分で解決する智慧のある人が
存在するとは私には思えない。そんな能力がある人がいればまさに
後光が差して空中を歩き自由自在に法を説き菩薩の姿を具現し人では
ない姿を現すでしょう。ですが今やっていることが将来どういう結果になって
かえってくるか、あと今やっていることが
過去どういう原因でいまの因縁になって
いるかということは分かるのです。それだけしか分からないですね。
あと自分の本性は善いもの自分は善いことができるしていると思うから仏の力
を頼らないのですね。正直になれば分かります。実際はそうではないのですが
そう思えない心の作用を煩悩というのです。否定する心を煩悩と呼びます。
悪いことをしていながらその実悪いという現実を認めない自分の心が原因で
悪果を自分の身に受けなくてはならないのが私の最後の叫びでした。
嘘だ自分は悪くはない、
地獄なんてない仏なんているものかと必死で受け入れないのが
自分の本当の姿でした。地獄とはイメージではありません、
自分の行いを自分で精算させられてしまう
世界です。いまは借金を背負っているようなものです。
死ねば精算しないといけないのです。
そしてまた何かに生まれるそしてまた借金をつくる。
そして精算しないとと繰り返すのです。
悪い魂を本性としているということが悪因をつくる原因ですから。
すべて悪因です。かえってくるのも
全て悪果です。
いま何か善因があったとしてもそれは自分でつくったものでは無くて、
もらったものかもしれませんよ。
自分で善いことをできると思う事体が妄信でそれが本性です。
本性ですのでそれを否定するのですが自分を悪いと認められないのが本性ですから
それを認めることは凡そ難しいことなのです。
それが原因で悪果の渦におちていくのですね。
南無阿弥陀仏 
仏はそんな私を哀れんで、私のために自分はいくら苦しんでも後悔はしないと
経典の最後にかかれていますね。
きょうは昔をおもいだしましたので書いてみました。
あと 苦因は苦果を感ずとあることを
地獄を恐い、死ぬのを恐いと思う人はそれは自分のまいた種が
自分に宿っている証ですのでその種を全て刈り取ってくれる仏がいますので
是非
刈り取ってもらってください。
方法はそうお願いすればいいだけですよ。
そのことを南無阿弥陀仏というのですよ。 
阿弥陀佛の行に仏に自分の悪因を消してもらうのです。

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