2009年11月21日土曜日

い こん とう

 御文章や教行信証の中に い こん とう ひらがなで書いてますが、前、今、未来か今正にかちょっとはっきりしませんが、書いてあります。これはどういう意味かといいますと、法の力で、聞くなり触れるなりは
はっきりしませんが、あと本願の光よりということもありますが、その本願や仏の力によって、人が信を得るという事が書いてあります。ですので、法が法を説いている感じですかね。表現が下手なもので誤解を招く事が怖いのであまり教義についてはいろいろ日記で書いたり、または法を説いたりするような賢いことは私にはできませんので、控えめにします。自分ひとりで読んだり、聞いたりして、なるほどーと思うことが多いんですが、それを公開して、だれかがあってるとか間違ってるとかいうのはどう考えても変ですからね。私は幸いにして子供のころから、いいご縁に恵まれまして、いい感じで南無阿彌陀仏を喜ばせていただいて、本当に幸せです。ですが、法を求めて居る人に何ができるのか考えてみますと、月並みな感じですが、法を聞いてくださいとしかいう事はないですね。自分もどちらかというと聞くほうがすきです。読んだり、聞いていたりするには、この話は悪くないですね。公開の場で自分の意見なんてものを言うのに私個人として抵抗があるだけなんです。ですので日記書くのも迷いがありまして、書き物なんだから何か役に立つことなんて考えながら書かないで普段思うことを書いていこうと思います。タイトルはこんなですが、だだのおっさんの日記です。

2009年11月20日金曜日

一休さん

 何か書こうかなと思っていたら、もう知っている人もいるかも知れませんが、一休さんの馬の絵の話が面白かったですね。あるお金持ちの人が馬の絵を高名な画家に書いてもらって、一休さんに絵を褒めてもらおうと
もっていって何か書いてくださいとお願いしたら、馬じゃげな と一言書かれたと。それはあんまりだということで今度は蓮如上人のところにもっていって何か書いてくださいといったら、今度は蓮如上人がちょっと笑いながら、その下に そうじゃげな と書かれたそうです。一休さんは面白い逸話が多いです。またそういう話題ならいいですね。こんな感じで今日は終わり。

2009年11月19日木曜日

如来回向ということ

 如来大悲の回向があるゆえに人が信を得る、そのことを花が咲くことに例えて昔咲く花あり、今咲く花あり
これから咲く花ありと例えられていました。蓮如上人ですね。御文章や御一代聞書にはいろいろなたとえ話が
ありまして、結構面白いですね。

自力他力のこと

 安心決定ショウ から 
自力・他力、日輪の事。
自力にて往生せんと
思ふは、闇夜にわが眼の力にて物を見んと思わんが如し、更に叶うべからず。
日輪の光を我が眼に受け取りて所縁の境を照らし見る、
これしかしながら日輪の力なり
但し、日の照らす因ありとも、生盲の者は見るべからず、
又眼開きたる縁ありとも、
闇夜には見るべからず。日と眼と因縁和合して物を見るが如し、
帰命の心は眼のごとし、
摂取の光は日の如し.
南無は即ち帰命、これ眼なり、
阿弥陀仏は即ち他力弘誓の法体,これ日輪なり。
よって本願の功徳を受け取る事は、
宿善の機『南無』と帰命して
『阿弥陀仏』と称ふる六字の中に、
万行、万善、恒沙の功徳ただ一声に成就するなり。
故に外に功徳善根を求むべからず。

2009年11月18日水曜日

まかせるということ

 まかすことができればそれで終わりであるとは、よく言われることでありますが、一体何を任せるのか、何でまかせるのか、どうしてまかせなければならないのか、たくさんの疑問があるはずですが、単純にまかせれば本当に楽なんですけれど、行者のわろき心にては助からず、弥陀のよき心にてたすかるゆえに、まことの心とは申すなりとあります。これがすべてです。これを知らせるが為に因果や罪業の話を通して、自分の心が悪いものであることを知らしめて、阿弥陀如来の心に救われるしか術がないことを示して、その心にゆだねる、いつも働きかけがありますので、阿弥陀如来は常にお願いしているんです、全てのひとに不断なく絶え間なく。私なんかは他人にあまり関心のない冷酷な人間なんです。わかっているのに勧めることができませんし、またしてもほとんど断られるのが普通ですからね。でも悩んでいる人の声を聞くと、もったいないなと思います。すぐそこに手が届くのに、まさに宝の山に入りて手を空しゅうすることなかれ、という感じでしょうか。
阿弥陀如来は常に信をあたえようという働きかけがあります。まかせるこころや信じる心をあたえてくれます。そのことによってしか救済されることは私には他にはない。他の人はわからないですが。阿弥陀如来の心にて助かるゆえにまことの心という。しかし、ここの話はデリケートな感じがします。条件があるではないかという話、ここは月は眺めるひとの心にぞすむ。私は釈迦如来がねんごろに教えた因果の道理がそれぞれの人の心を映す鏡であると思います。法に照らされ始めて自己を知ると、法に任せることができるのですから、その法を正しく説けば全ての人が信を得ることができるはずですが、経の中に必ず口授を用いよというところがありまして、文章で表現するには限界があるんですね。ですが一応は因果の道理や、諸々の罪業の話があります。自分の罪業について話をしてそのわけは自分の欲望を満たすと気持ちがいいからであるという話をします。そしてそれがいいものか悪いものかしらべて自分の欲について少し経から考えて見ます。地獄に行くとか
極楽に参るとかいう話とは根本が違います。この勘違いが一番恐ろしい部分です。お浄土に参るとか地獄に落ちるとか、だれがわかるものがいましょうか。はたして居るでしょうか。私は居ないと思う。ただ死ぬのが怖い、後生は不安である、自分は罪を少しは作っているということがわかるくらいではないでしょうか。
しかし自分の罪業がとてつもなく深く重いものであるということを私の心を通して書いてますので他の人の思いについて書いているわけではありません。ですから自己を激しく責めるととてもつらいのでそれはやめるべきです。すくなくともこの法と阿弥陀如来の名を聞いている人は本願の力によって強く導かれていると私は信じて疑うことはありませんから、もし今生空しくすぎてもまた法を聞かれることでしょう。しかし早く求めるほうが得が多いです。本題に戻りますが簡単なんです。たすけさせて欲しいというお願いはいつもあなたに呼びかけられているんです。ここでキリスト教の話をしますが、キリスト教では信じるものは救われる、という教えですね。仏教は信じることはできないものに信じる心を与えよう、信じる力がなくても信じさせてあげよう、任せる心を与えようですね。後生たすけたまえとは、自分の罪業や悪果をすべて消して仏にするという仏の行に任せるということですがここに一心一向という言葉がつきまして、これが難しい上にもまた難しいはなしなところです、二心なくとかあります、これはやはり信の話をしてもらわないと無理なんですが、その内容は人それぞれ違うのが普通ですね。なんと表現したらよいかわかりませんが義なきを義とするというのが答えです。もともと本願の働きは生きていますから今あなたがお任せしますと念仏してくだされれば終わるかもしれません。信は頂き物であるとだれかよくいっていますが、是について異存はないですが、因果の道理が信ではないですが自己を写す法であることをいって今日の一人ごとを終わります。

安心問答 ご迷惑おかけいたしました。

 このブログを紹介してしまったことは少し後悔しています。しかし一回だけですので、もう投稿はしません。ただ私の思いは人と争論はしたくないんです。林遊さんは間違ってるとかいうつもりではないですが、
どうしても他力の信の話ですので衝突するつもりはなくても私からみればそれでは質問の解決にならないと
いうことなので色々書いてしまったんです。だまっていればおそらくはそういう話にはならなかったでしょう
。本願寺の観学さんも明治まではいろいろ自由にモノをいえたみたいですが、最近は偉いお坊さんがいうことは絶対になってきているんですね。でも異安心であるとか秘事法門であるとかいう話よりも私は本願の話をしてもらって信心の話もしてもらったんですね。その方はもうお亡くなりになられたんですが、やさしい人でした
。私はそのことを思いだすと求めているひとに話を勧めることは悪くないと思っています。しかし怒ってますね、私はこんなに反応があるとは思いませんでした。皆さん自分の信仰がベストだとおもっておられるんで、それを否定されるように思うのなら困りますからね。別にそんなに意地悪がしたいわけではないですしね。
第一経典にないことは書いてないですからね。創作でないゆえに、困らせてしまうのかもね。信心の話で自分が善智識であるというようなことをいう人は私は信用しません。善智識は阿弥陀如来と釈迦如来なんです。それで本願の話は阿弥陀如来が阿弥陀如来のことをいうために釈尊との約束でできた尊いお話です。私のほうをみれば悪いことばかり目に付きますが、私も宗祖を見習って他人を中傷せず、自分の悪口をいうしかありません。嫌なんですけどね。本当は。だからいわれてもあんまり怒らないようにしないと、でもいわれれば人間だれでも腹が立ってしまうものですね。情けない上にも情けない。でもここに人を誘導するのは後にも先にも一度のみです。信の話を積極的にやっているわけではありません。普段は話してませんし、勧める機会さえありませんからね。でも問答というわりには誹謗が多いですね。求めている人からすれば迷惑な話でしかないので
私はもう登場しないほうが運営の方に迷惑をかけずにすみます。本当にご迷惑をおかけして申し訳ありません
でした。

2009年11月15日日曜日

仰せに従うのか、返事をするのか

 私は多数の人と信について意見を異にしています。悟りを得ます。信はね、凡夫の悟りですよ。悟るとは吾が心とかきます。自分の心を知らせてくれる仏がいます。よって何がわかるかといえば、自分が悪いということがわかります。歎異抄の善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、これの意味は宿善を得ないとわかりません。これはどういう意味かといいますと、善根をもって善因をなす人が往生して仏になるのに阿弥陀如来をたのむ、すなわち阿弥陀如来の行をたのまずしても仏になれる者も阿弥陀如来をたのむのに、善根もない悪因しかもてない悪人が如来をたのまないのは愚かなことであるという意味であると私はおもうのです。善悪関係なく救うとありますが、自分の心を知らずして法がわかるわけがないですよ。

自力他力事2

たとえば、腰をれ足なへて、わが力にて起き上がるべき方もなし、まして、遥かならんところへ行くことは、かけても思ひよらぬ事なれども、たのみたる人の愛おしとおもひて、さりぬべき人あまた具して、力者に輿をかかせて迎へわれらが極楽へ参らんと思ひたちたるは、罪ふかく煩悩も厚ければ、腰をれ足なへたる人にもすぐれたり。唯今にも死するものならば、旦夕に造りたる罪の重ければ、頭をさかさまにして、三悪道にこそは堕ちいらんずる者にてはあれども、一向に阿弥陀仏の誓いを仰ぎ、念仏して疑う心だにもなければ、必ず必ず唯今ひき入らんずる時、阿弥陀仏目の前にあらはれて、罪といふ罪は少しも残るところなく功徳と転じかへなして、無漏無生の報仏報土へ将て還らせおはしますと云うことを、釈迦如来ねんごろに勧めおはしますことを深くたのみて、二心なく念仏するおば『他力の行者』とは申すなり、かかる人は、十人なら十人ながら、百人は百人ながら、往生することにて候なり。かかる人をやがて『一向専修の念仏者』とは申すなり。同じく念仏しながら、偏へに自力をたのみたるは、ゆゆしき僻事なりて候なり。あなかしこあなかしこ。

自力他力事

 まづ自力の心というは、『身にも悪きことをばせじ、口にも悪きことをばいわじ、こころにも僻事をば思わじと、斯様に慎みて念仏するものは、この念仏の力にて、よろづの罪を除き失いて、極楽へ必ず参るぞ』と思いたる人をば、自力の行というなり。 他力の念仏 『わが身の愚かにつけても、かかる身にてやすくこの娑婆世界を如何離るべき。罪は日々にそへて重なり、妄念は常に起こりてとどまらず。かかるに就けても、ひとへに弥陀の誓いをたのみ仰ぎて念仏怠らぜれば、阿弥陀仏かたじけなく遍照の光明を放ちてこの身を照らし護らせたまへば、観音・勢至等の無量の聖寿、ひき具して行・住・座・臥、若しは昼・若しは夜、一切の時、所をきらはず、行者を護念して、目しばらくも捨てたまわず、まさしく命つき息たえんときは、よろづの罪をば皆うち消して、めでたき者につくりなして、極楽へ将て還らせおはせしますなり。されば罪の消ゆることも南無阿弥陀仏の願力なり、めでたき位を得ることも南無阿弥陀仏の弘誓の力なり、遠く三界を出でんことも阿弥陀仏の御力なれば、一歩もわが力にて極楽へ参ることなしと思いて、余業を雑えずして一向に念仏するを『他力の行』とはもうすなり。

信心について

 阿弥陀如来の行にまかせると私はいってますんで、堂々と否定されるんですよ、某サイトはね、でもね、後生の一大事や後生たすけ給えと申さん衆生を弥陀が光明を放ち摂取するというのをなんかね、それ以外の解釈はないんですね、その字句どおりです。ホントにそんな感じです。

一人でも気づけばいいのに

 あるサイトで投稿していたんだけれど、結局は自分の都合いいように解釈していて、さらにそれを聖教のように書いている人がいる。ネットでそれを本流にしたいという欲があってやっていることなんだろう。本願寺の後ろ盾があるかどうかはわからないが、禍根の元になるかもしれないな。ここで杞憂をしていても仕方がないがまた廃れていけば本願の話をするものが誰もいなくなる。念仏は阿弥陀如来の選定された行であるから、行者からは不回向である、これは一見正しいように見えるが、選定された行ではなくて阿弥陀如来のする行である、阿弥陀如来のする行に帰依するから救済されるのである。南無阿弥陀仏

信は難しい

 しみじみと思うのが親とあっていない淋しさを告白する人がいて、その人に説教を公開の場でする事に抵抗を覚えますね。遇えば終わりなんだけど遇えない淋しさは向こうのほうであって自分は本願の内容も知りたくない、わかりたくない、聞きたくないと心を閉ざしていることを気づいたら話は早いと私は思うけど、それをいわれると腹たつやろうしね、難しいの中にも難しいとはこのことだ。おなじ様なことをいう人もたくさんいるだろうけれど、堂々巡りを繰り返して無駄足ばかりでつらいことであると思う。自分の悪業は宿因といいますから、宿因は宿業があることを示し、宿業があるゆえに宿果もあることを示す。これが因果の重要なところである。宿因は宿果を生みだしていくんですが、現当二世の因果はよく信じられますが、前現来三世の因果はないように思う、これが迷妄の元です。せみの話はここの意味ですね。

2009年11月14日土曜日

解決にはならない

 たすけて欲しいと思う心は如来が起こしてくれるのか、それとも話を聞いてそう思うのか、どちらも正解なんだけれど、そういう心を自分で起こすことはできない。起こしてもらうことを宿善開発してもらうということなんだけれど、違う意味で捉えているので訳がわからないだろうと思う。それにそんなことをいうとそんなことできる人間などいないという反発が大きいのであるが、その批判はその通りである。ただ念仏は仏の行であるがゆえに尊いのである。しかし、仏の行にまかせる心を頂くには法を聞かなければならない。それで聞即信となる。

いい感じ

 予想以上にいいたいことが伝わっているようで嬉しい、なかなか教学もいいかもしれない。でもやはり信は如来回向の賜物ということを説くのに因果の話は必要である、天地神明の道理であると説かれているように、この世界に生まれる以上、前世と来世の因果の話は本当であることを説いてもらわないと信心を得ることは不可能である。

他人のあらさがし

 他人のあらさがしになりますのでここで書いときましょう。まず与えてくれるのは、念仏ですね、信一念あれば救われるということは皆さんしってますよね。それをくれるんですよ。簡単ですよね。もらえるとういうよりはあげようという仏にたいしてもらいますという返事をするんです。それが難しいですか?その中に願行具足といいまして死んだあと受ける世界の悪業、悪果全てけして仏にする行が含まれているんです。そして輪廻から解脱するには阿弥陀如来の行しかありませんので、それをたのむんですよ。

阿弥陀如来の回向

信一念の話をする人の中に阿弥陀如来の回向についていろいろと書く人がいるのですが、ある部分はあっていますが、ある部分は間違っています。私は本人にそっと教えてあげるべきかもしれないと最近思うのですが、まぁそんなに悪気がないのならいいのですが、阿弥陀如来にただいま救われてくださいといえば、信が得られるように聞こえますが、実は眺めるだけでいいのだ、もう救われているから安心しなさいという言い方をする人が多いのが現実である。御文章貼り付けてみたくなったので本人のために貼り付けてみました、何か感じることがあればいいのです、そういうことが求道につながっていくかもしれません。聞くひとが間違えば話す人は咎を受けます、聖典でものをいうほうが公開の場では、いいのかもしれない。間違っているのは、後生たすけたまえと申さん衆生ですから、その心を与えてくれるというのが正しい。教学的にも正しいはず。

2009年11月13日金曜日

因果の道理について2

文字 大きめにしてみました。 因果だけでも人それぞれ意見が大きく違いますが私は因縁果の法則について全て知ることは不可能であると思います。この前にTVで脳腫瘍の手術をするお医者さんがもしなぜ脳腫瘍ができるのか解明できれば私はノーベル賞ものであるといわれていたのが印象的であったと思います。つまり前世の因があるから病にかかるということもあるわけです、できものはそういうものが多いそうです。もともと体の中にそういう因子をもって生れてくるということです。それが治るかどうかまではわかりませんが、病気は因縁ということを知らせてくれるのにわかりやすい例かもしれませんね。
 そう自分の体に宿っているんですね、因がねそれが何かのきっかけで表に出てきて症状を起こすわけですからこれは正に因果そのものです。体に宿っている因を宿因という風にいうんですからね。私の方から見ればこのように自分の体にできものができたときにも同じことをいわれたんですが、因と果の話はとても実は奥が深いのです。毎日こんなテーマでもいいかもですね。

因果の道理

自業自得と罪福と我執について整理してみたいと思いついたので書いてみようと思います、某サイトに投稿するのはもうやめにすることにしました。やはり文章では無理だし、ありがたくなりたいのなら。私は不要です、私のコメントのせいでかなり変な方向に行きそうなのでもう自分の力で誰も救われるわけはないのだから、やめにするのである。ただ因果の道理というのは三世因果といいますが現世のことも含んでいることに違いはないが、われわれが知る術はないです、前世の因はわからないし、来世の果も知る術はなく、結局結果的にこういうことをしたのは、因があったとか、こういうことをしたので、果をうけますよという話になるにすぎません。罪福の因縁というのも、今財があればそれは過去にだれかに施したことがらかもしれませんし、今不幸にあえば過去に誰かにつらい目にあわせたからかもしれません。そで摺りあうのも多生の縁とあるように、これも因果の縁を例えた面白いことわざにあるように前世になにもないことはないという意味です。それを自分の成功する因や、失敗する因と分けて分析していって勝ち負けについて調べるような事はお互いに夢中になりますが、実はそれは因果の道理とは何の関係もない話です、なぜなら成功したと思っていてもそれは帰って次の生でどのような結果を生む因になるのかはっきりわかる者は誰もいないからです。ですので現世の罪福と後生の話は全く違うはなしなんですが、因縁は現世、前世のどちらが原因かなんて話になりますともう非常に難解になってきます、はっきりいって分かりません、ここで変に執着しますとカルト的な話にもなるわけです、ですので整理してみますと結局われわれは結果からしか物事が分からないという事に帰結するべきであるというのが大事な話ということになります。結果からならある程度先ほどに書いた例のように分かりますがこれから自分がやることと起こることは前世の因縁に左右されますので分からないんです。ただ自分のやったことや努力が大事なのはいうまでもありませんが、それと罪福の因縁とはまた別の話なんです。さらにこれと後生の話を一緒に言って私がそういう風に表現しているという風にいわれるのは心外というより
よほど私のコメントが都合悪く排除したかったのだろうと説明できないからそれは真実ではないというのは乱暴すぎはしないだろうか、でももう投稿しないよ、ここで適当に書いてそれで終わり、だれかに求められたときに話しようと思います。ただ南無阿彌陀仏してくれと勧めるのみです。かの仏の願いにかなうが故になんてかっこいいセリフか法然上人は仏の生まれ変わりだと私は思うけどね。

2009年11月12日木曜日

不言実行 

 日記だから、一人ごとをぶつぶついっているだけなのは少し空しいが、讃仏というわりには、あまり法の話を書いてないなと思う、昨日、不言実行でいいといわれたんだけれどね、黙って働くみたいな感じかな、文句いいながら、周りに迷惑かけるのなら、意味はないからね、念仏を勧めはするものの、伝わるかどうか難しいから、文章ではなく口授を用いよと聖典にあるのだから、書いて何か残すと恐ろしい弊害を産む可能性がある、だから昔の人は聖典から外れることのないようにされたのだろう、経の解釈を個々人でするのを周りがあれこれとああでもない、こうでもないといいながら、結論がでないのは、だれもわからないから、わからんくせにわかったようなことをいっているお互い、自分は何もわからんが、如来が全てするということはわかる、任せると口で言いながら、心からそうなれるのかと思うけど、阿弥陀如来に教えられればわからないはずがない、人間なんて何もわからない、どれだけ偉い先生でも何もわかっていない人がとても多いのが、現実である、しかし、三毒五悪段をいわなくなったのは、話す人の油断にあるのだろう、実際はそういう話が必要であるといつも思うのだけど、どうでもいいという意見が大半なところに求道上弊害があると私は思う、二種深信と明確にあるのに、一種深信でいいという僧が圧倒的に多いのは僧自身に他力の信仰を求める人がいないからである、惰性で職業をする人が多いのを責めるのは酷であるが、信を求めよという立場の人が信を求めないのは自己矛盾してはいないだろうか。

2009年11月11日水曜日

信一念

 南無阿彌陀佛という一念は仏の助けたいというお願いと私の助けて欲しいという思いが合わさったときに機法一体となって現れる、お任せするのは、返事は簡単になんでもいいから、遇えば終わりである、こういうとお任せする心にならないといけないと思う人が多いのだけど、もともと私のほうは助けておくれという心を持ち合わせていないから、向こうからお願いされる姿になっています、それに対して了解すると終わりなんですが、後生助けたまえと申さん衆生ですから、助けたいということの中身くらいはみちびいてもらわないと何が何やらわからないはずです、簡単にいいますと阿鼻地獄に無量劫のあいだ落ちてでることがないということなんですが、それをいいますとなぜ今生きてそれなりに楽な生活ができているのか、という矛盾がでてきます、それはおそらく阿弥陀如来の功徳かなと思うことがあります。私の方を見ますと唯知作悪と悪いことしかできないということに確信をもっていますが、ここのお導きが適当に終わってしまうことが怖いんですね、そういう言われ方ですと腹が立つんですが、善ができないということを説かれる場合もあります。布施なんてほんとに不可能です、もともと釈尊が生きていたときに言われたとおりにした人のみができたことがほとんどです。つまり善ができないことを知ることが悪業を消す術がないという事につながるんです、故にまた唯知作悪とは善ができないから、悪をつくることしか知らないと概念上はなります、ここの話においても因果の道理というものから外れることはありません、詳しくは三毒五悪段という観無量寿経下段にありますが、あの内容が私の生活の内容と外れることがないということにこの話の要点があります、因果の道理は全て果報を受けるということですが、死んでから
殺し合いをし合って終わることがない世界にまた生れると。畜生界ならいいですが娑婆世界にうまれることはまた難しいんです、人間の姿に生れるのも稀ならば、またこの世界に生れることも稀なんです、

観無量寿経下巻

三毒五悪段をあらためて読み返してみるときちんと整理されている、当たり前だが、聖典が一番正しい 因果の道理で死んだあとは殺し合いをお互いに繰り返し終わることがないと説かれていた、なるほど、ならば私のほうが間違ったことをいっていたのか、なるほど本願の力は本物だな、と思った、たぶんあの人は大乗の願船に乗ることができたんだろう、あっているじゃないか、まぁ微妙に違うのは人間の浅智慧が本願に抵抗することがあるからだけど、それをあえて軽く直してみるけど別にそんな必要もなく阿弥陀如来が教えていくところがある本人が気づいているのか、気づかされているのか、とにもかくにも南無阿弥陀仏だな。

2009年11月10日火曜日

機法一体 二種深信について

 機法二種深信についての教学について書かれている方がいましたが、あっているかのようにみえますが実は肝心なところが欠落していることが多いと私なんかはあらさがしができてしまいます。おそるべし、石は沈む、沈む自性をしればいいというのは邪義です、そんなことどこにも書いてませんので、明らかにこれは機の深信とはいえません、残念無念、な感じですがこんなこと本人にいうと頭から湯気をだされることまちがいないですが、まだ信などないという人のほうがこれなら救いがあるというものだ、かえってこれが信であるというようなモノを自分で創造することが恐ろしい。凡夫であるといいながら見事に機の深信について別解を堂々と書くのは誹謗正法ではなかろうか、まぁ本山は信心についていろいろなトラブルを抱えるわけにはいかないので統制するために異安心について取り締まっているのかもしれないね、それにしてもなんか書かないといけないというわけでもないが、わからない人に責任を持たせても仕方の無いことだが、それを真実と受け止める人が哀れに思う。

本音

 某サイトで投稿していると的確な批判をもらった、自分のわかることだけならば、日記に書けばいいんじゃないかと、まぁ本人もそうおもっているから、本当に日記を書いています。単純な性格なんで、そんなに気にしないでいろいろデリカシーにかけていると相手は言いたかったのだろう。怒らせたら意味がない聞く耳持つかという気になってしまったら、元も子もないじゃないかっていう感じのことがいいたかったのかもしれない。読みにくいかーそのとおりであるなーでもそういう方向でいきますのであまり迷惑にならない形にしますんで許してくださいといいたいがひょっとして本人かもね、心あたりはあるから、ごめんなさい、もうしませんと思いました。コメントで全部しようということが図々しいんだろうなーそんでだめなら人任せというのはこれはいけないと思う。わかっていながらやるのはもうやめよう。ただひょっとしたらだれかやってくれるかもしれないという適当な感じでやるからわけわからんままわけわからんとなるだけだしね。ただコメントを書くのに時間をかけて内容を整理してからというのは、この人は書くことに対してはお許しくれているんだなーじゃ自分の責任で内容を整理してちゃんと編集してからかきます。いい批判だなー有難い。

2009年11月9日月曜日

私は布教目的で書いているわけではありませんが真宗の教義について説明するのも実は問題があります。わからない話を書いて批判する、される世界になると法を謗る咎があるということですので、その意見が正しいか間違っているかということよりも自分の意見が及ぼす影響について鑑みて書かないといけないと思い自分のことの告白か、まぁそうですね、自分が悪い人間であると一生いわれた宗祖のように真似はできませんが、自分の内面は愚かにも常に阿弥陀如来よりも偉く、善いものという思いが消えることはなく、鼻にかけているのだとよく言われた方の顔を思い出しながら、コメントなり、なんなりして、聖典を汚すことのないよう、そのまま自分の信のまま、ひとりつらつらと書いていこうと思っています。ですから、誰かの意見に対してそれは違うとかあってるとかいうつもりがないということですので、私に質問されても説明はしますが、他の人の解釈についてはご容赦して頂きたいと思います。往生要集という聖典について触れてみたいと思います、厭離穢土、欣求浄土これは、機法一体の内容そのままです。厭離穢土が後生助けたまえという内容で、欣求浄土が一心一向に阿弥陀如来をたのみ申すという感じです。ですから、機の深信はこの世界を厭う穢い土を嫌と思い離れよ、欣求浄土とは浄土に生まれることを阿弥陀如来に任すと生れたいと思うのと、任せるのく、重要で、欣求浄土、厭離穢土になっていないことが大事なところであります。私は自分の善悪について知る智慧に欠けていますので法によってのみしか、己の悪さに気づくことはないのであります。しればしるほど恐ろしいものがありまして、私はその話があまりにも恐ろしいものでしたので、自分は悪いということを言われて安心できる世界があるといわれてもなかなか信用できないのも無理はないと思いますが、私は自分の罪悪や自性についても聞いたことをそのまま書いていこうと思いますが、あとは聖典に頼ろうとおもっています。今日はここまで。

2009年11月8日日曜日

いいたいことは面と向かっていえとよくいいますが、本当にそのとおりだなってよく思います。信心の話をインターネットで公開するというのは、実は大変負担の大きいことではないだろうか。自分の心のうちを正直にネットで公開するのには、匿名性があるとはいえ勇気のいることなんだろうなと思う。そのうえ
どちらかというと聞き苦しい話をしなくてはいけないし、聞くほうも話をするほうもできるだけ触れたくない部分というのがあると思う。本当にこんな話をもとめるのかなって話ながら思いつつも縁があれば話をするだろうし成り行き任せな自分は人に勧めることは滅多にしないしできないですね。今の関係が縁が切れる覚悟がないとこんな話はできないから友人に勧めるのは本当に大変勇気がいることである。だから当たり障りのないことを書いて適当にすましてしまおうかどうか迷っているのが本音である。信心の話は今の真宗では禁忌のようだし、また同行がおそらくこっそり話を親近者優先でおこなっているのが現実であると思うな、インターネットでそういう話を集めて出会いたいという気持ちもあるが、まずは自分の身内からというのは人情である。それで他人に勧めるかというとまたこれが難しいのでなんとも情けないが自分に話をしてくれた人に感謝してそういう思い出を回想しながらなんとなくだれか一人でも縁があればなーって思うのがいまの偽らざる心境である。親鸞上人や蓮如上人の子孫に偉そうに言える筋合いがあるはずもないので本山に文句をいうのはやめようということである、しかしいつからか、統制
されて信心の話が人集めの詐欺に使われる昨今信心があるなしの話ではなくて、信心が存在するかしないかというような話になるのは嘆かわしいというより寂しい。またこの話が廃れてきたら還相廻向のかたが本当の慈悲をもってして世を導いてゆくかもしれないから、なにも批判しなくてもよいと思うこともある。自分は能力も親切もかけているのでやろうという気すら持ち合わせていないな。
この日記は一人ごとなのであまり深く考えないで行こう。某サイトで投稿していたけれど、
あまりにも意見が違いすぎることに抵抗を覚えたが、争論は誹謗する原因になるので、
やめておくべきである。南無阿彌陀佛の意味は紹介できるが、実践できないことをしろと
いうのはとても変であることにようやく気づいたのであまりそういうことをいうのはやめよう。

2009年11月1日日曜日

初日記

まあ、タイトルが讃仏や南無阿彌陀仏なんは、大げさにもみえますが、なにか書いておいて自分を売り込もうとしているように受け止められるやもしれませんね。でも、自分の信心についての想いと、ほかのひとに対しての発信も兼ねて、自由にやりたいんで、ブログでなんとなく独り言を書きたかったんでやってます。いつ終わるかわかりません、気分しだいですね。極重悪人とか、因果の道理とか、煩悩即涅槃とかあとはねえ、機法二種深信とかね、いろいろとややこしい教義がありますよね。でもそのすべてについて、突き詰めて分析してみようとしますと、難しいんでわからないんですね、自分はですよ。でもね、
理屈はよくできておりまして、うんうんと納得できるんですよね。ただし、私の文章力では、表現しきれませんので詳細はどこかで宗祖のような人か信心をちゃんと頂いた人に話ししてもらいましょう。まぁだれも私には依頼しないと思って高をくくりながらやってますんで、私にもし依頼されたらほかの人に押しつけます。はい。まぁ自分の悪口をひたすら言った親鸞上人はすごいですね、私も言いましょうかね、どうしようかな、嫌だな、うん断じていらんと思うのが人情でしょう。本音でしょう。自分の悪口をひたすら書いたら、そのせいで誰かが責められるかもしれないし、一方通行のブログではリスクが大きいかもね。まぁほめあって讃仏しあうのが健全に受け止められるのも人情ですが、世の中おそろしい善智識が多いのでびっくりしますね。あんたは何者?よくも自分で善智識といえるねとか罵りたいですが、そういう風に自己表現する人は私は信用しません。断じてしません。