2011年12月6日火曜日

書き足し5

それで、どうなるかといえば、どうにもなりませんが、

永遠に生まれかわり、死にかわりするこの世界を支配

しているのが因果の道理であります。今生もしかり、

また来世もしかり、私は生まれ変わり、死にかわり

した死体が世界一高い山よりも高くなると。

そして、この世界にいるかぎりは、罪をつくることからも

罪を受けることからも、また、この世界からでること

も自分の力ではかなわないものです。

それで、その姿を見た阿弥陀如来が、私の罪をすべて

引き受けて、さらにこの世界から出して、因果と輪廻の

世界からだして、仏にする。そうすればこのような

痛ましいことから逃れられると、必ず救うと。

そして私たちにわかりやすいように、修因感果の道理

もとかれ、悪因は悪果を感ず、善因は善果を感ずと。

悪因を感じる人は、その悪果をすべて消してくれ

この世界から出して仏にするという仏がいますので

その名前を呼んでください。 南無阿弥陀仏。

厭離穢土、欣求浄土。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。

書き足し4

そして、そのような悪い自性で作り続ける

罪業を持ったまま、後生は暗い所に及ぶとしますね

そして、またひょっこりとこのような人として生まれ

また死にます。つまり、さきほどの例ですと

殺し続けた罪を償うというか、果を受けたならその果が

また因となり、こんどは殺し続ける罪をつくる側に

回る、もっといえば、悪性で作った果を受けたならば

それが因となり、次にはまた悪性で因をつくるとなります。

永遠にいろいろな肉体に生を受け、生まれ変わり死に代わりし

死ぬたびに報いを受け、やむことがありませんと。

つまり、この世界すべてを厭えと、いやだと思えと。

今見えている世界が罪をつくる世界だとしたら、

死後には受ける世界がまっていると。

書き足し3

つまるところ、殺すのも殺されるのも

避けることはできません。永遠に殺し合いを

しなくてはなりません。さしずめ等活地獄のような

話でもありましょうが、実際はもっと凄惨であり

表現の及ぶところではないとなっています。

それは私たちすべて生きるものの自性が罪体ですから

自分の魂の本質が罪をつくる要素しかもっていない。

欲と毒の塊であり、気に入らなければ、まさに鬼の

ような形相にもなり、その本質を少しだしますが、

私自身でよく思うのですが、何かを食するときに

おいしいとまずいということを言っている姿が

そのままその本質を教えています。

書き足し2

それを三世因果の道理にあてますと、いま殺した生き物は

前の世界において私を殺した者であるとなると説かれている

つまり、殺因と殺果は同じでありまして、殺果があるという

ことは殺因があると、因縁果というわけです。何かを殺す

ということがあればすなわち、殺される因もむすんでいる

これが因果の道理なわけですね。一体どれほどの因を結んで

いるのだろうか。またどれほどの果が帰ってくるだろうかと

業というのは、宿業と説かれています、つまり宿っている

自分の業行は宿っていることですと。これは先ほどの殺因

殺果の話とつながります。前世から作っている因というもの

が果をうける何か、悪果であるか楽果であるかはわかりません

が、それが私たちの身体にも魂にも宿っているわけです。

また書き足ししてみよう

私は、この信心の話は、きちんと伝えることが

出来たのならば、そして、当人が如来の行によると

自分の行を捨て、如来に助けてもらうしかないと

現状において、どうしようもない現実を受け入れたら

阿弥陀如来の行に頼るしかないとなると思います。

そこで私の想いを振り返っているわけですが、

命や魂というものを考えてみたときに、たとえば

犬の身体に生まれれば、犬となり、人間の身体に

生まれれば人となると。 そして、動物の魂も

人の魂も同じであり、その性は悪性であると。

生きるということはすでに、ほかの生ある魂の

命を奪うということですから、自分と同じ魂を

もつ生き物と縁を結ぶということになるわけです。

2011年12月5日月曜日

最近 よく思うこと

自分がこのように、いろいろ書き連ねて、何か

善いことを言っているつもりであっても、

所詮人の、人間の頭であれこれと言っている

その現実からみれば、この投稿自体に意味が

あるだろうかとふと、思う。

阿弥陀如来の本願は阿弥陀如来が作り、また

私を常に照らしてくれている。そして私に

何を教えてくれるかといえば、結局自分は

毒を吐いているのかと。これでよくなったのか

とじぶんで毒を出したところで、外に毒の塊

を出したところで、毒の大元は自分自身なのだ。

結局毒というものは消えてなくならない。