2010年10月7日木曜日

厭離穢土 欣求浄土 

私はこの言葉が一番好きです。どの言葉よりも好きなのです
分かりやすい、そして本当の気持ちはここなのです。

穢土とは今生きている世界を含めて、過去世、来世も含め全ての
現世界を指し示します。

欣求浄土 これは仏の国を願い求めよ

厭離とは 厭い離れよ

即ち三世因果の道理に束縛される世界、汚い世界から
厭だと思え、そして離れよ

仏の国をねがい求めよ

そのために念仏があるのです 南無阿弥陀仏

業繋とあります これは業に繋がれている

業とは三世因果のことを意味しています
繋とはつなぐと読みます

三世因果の世界に束縛され、汚いからだと魂を持ち
苦界から苦界へ今の人の世界も仏説では苦だと
とかれてはいませんか

私は苦界から出すという念仏の教えは
今は悪因をつくる世界でまた苦を受け
死ねばまたその悪因により苦を受け
そしてその果によりまた悪因をつくる

無限に循環して終わることがなく
より苦しいかそれよりも苦しくないかを
繰り返す

それが厭なのです、そして私がつくった悪因は
全て滅ぼしてくれるのですから
その因を消す力のある阿弥陀如来に任せる

この世界にいるかぎりは誰しもが因果の束縛から
逃れることはできないのです

自性を変えることなど出来ません
悪因をもっているから死後を怖がらなくては
なりません

苦因は苦果を感じ 楽因は楽果を感ず

この世界に生きる生き物すべてが因果に束縛されます
縁ある衆生で親でないものはないと
ある仏説には説かれているほどなのです

私達は全て縁がある生き物の命を奪っていますが
実は親兄弟であったとなるのかも知れません

罪を犯したらその報いを受ける
それは生きている時の罪と罰の話だけではなく

因果とはつながっているゆえに避けられないものです
悪果を受ける因は悪果があるゆえに生れるのです

その因果に束縛され悪因をつくることと
悪の本性を持つ本能的な魂が生み出してゆく
終わりのない因
此の世界は汚く、体も汚れていきます

後生の一大事とは自分の過去世から作りに作った
悪業であることははっきりしていることです

そして因果の世界に生きているわけですから
逃れる手段はないわけです


その逃げられないわたしを哀れんで修行をし
苦因を消すためにいくら苦しんでも後悔はしない
耐え忍ぶと

誓いがあります

そして仏にしてみせる

そのためにはいくら苦しんでもかまわない

その御心が南無阿弥陀仏である

願作仏心 度衆生心 これは大菩提心なり

その御心に任せるだけであります

南無阿弥陀仏

2010年10月4日月曜日

阿弥陀如来の行について2

 ここで話がもどりますが、己のことが分かるということですが
ひとつの文字がそれを教えてくれます。
悟るです、此の文字は吾という文字に心がついています。
己の心が分かるということは悟りなのです
これを一人で成し遂げたのは釈迦如来ただ一人です。

つまるところ仏教の出発点は悟りを開き成仏するですから
己の心を知り、修因感果の理といいますか感覚により
楽因を積み、悪因を消す修行を行い、自性を変え
仏の世界に生れる道を指し示します
これを仏道修行といい、厳しく欲望と愛欲を節制し
その目的は自性を変えることにあります

それが出来たならば成仏の因があと何千憶劫年かかろうとも
ひとつの行でさえ積み重ねていって己の自性を変え
成仏するという事になります

しかし、私達は残念ながら、自性をしる事も出来ませんし
行を行う前提にも立てないのです

悪性さらにやめがたし、一行も及びがたき身なれれば
地獄は一定住みかぞかし

これは親鸞聖人の言葉ですがかの高僧は己の自性を知らされ
そして己の能力を感じ、その結果を導かれました

此の一文の中には確かに仏道修行をしようとする人の前提が
あります。まず自性を知る、そして行をする。

しかし自性を変えることはできない、日々募る妄念
悪感情、悪魂を変えられない、そしてそれを変える行をすることも
できないとなれば、自分のした行いと自分の魂の導く因縁によって
行く先は地獄が一番似合っていると親鸞聖人は言われました

ここで自性を知ることは即ち自らの運命をしることになることが
はっきりと述べられているところが良いと私は思います

唯知作悪 悪魂は悪を作ることは教えられなくとも知っています
教えて貰わずともおいしいものを選びます
教えてもらわなくても自らの快楽を選びますね

自ら苦痛を肩代わりして誰かを救済し、救われれば安堵するというよう
な高級な人は今は見当たりません。自助努力を推進しますが
自らは肩代わりできる人は存在しません。
できるのならば、飢えた人の代わりにその場所へ行き
自分が代わりに飢えて、この食料豊かな場所につれてくればよいのです

それでも善とはなりません殺生をすればその報いを受けるのですからね

しかしこれはひとつのたとえです。自らほかの苦しみを肩代わりすることは
その行いによる結果を結ぶことでしょう

そういったことを悪感情なしで常にできるような心を持たなくてはならない
そういう姿になれるのでしょうか


ここで最後に結びます、阿弥陀如来は私の因果を引き受けるために
代わりに苦しみを肩代わりしてそして私の苦因を全て消してくれる


それゆえ苦因が消えます その行を信じる 任せるだけなのです

南無阿弥陀仏 

阿弥陀如来の行について

 阿弥陀如来の行ということについて考えてみます。
南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏をたのめという意味ですから
全てしてもらうことを指します。
そして私が何もしなくても、念仏の状態が続くことを
憶念の信と表現されています。 憶という文字は心と意と
記憶の憶ですね、念とは念仏のことですから、念仏を心に憶える
ことが常にしてですから、途絶えることがない状態です

これらを自らの力で行うことは出来ません
他力に委ねると口ではいいますが、本当にしてもらっている状態
ならば、その姿になります

憶念の信常にして仏恩報謝の想いあり 南無阿弥陀仏

この心はいつも念仏の状態にしてもらっていることが分かる
そしてそのことに感謝する気持ちが起こることを指します

よく機法一体の二種深信とありますが、この機の深信と法の深信は
同じであるといわれます。私達一切衆生の性質をごらんになった
阿弥陀如来が全ての衆生を救済すると誓われたのが
南無阿弥陀仏の誓願なのです。

全ての衆生ですから、命がある者を全て救うという事です
仏典に鳥のさえずる声を聞いて、その声は親の声かもしらんと
感じることがあるとあります。縁を結んでいるのだから
多生の縁としてつながりがあるという事です

こういったことからも仏典では全ての命は全て平等なのです
人があえて、動物、植物、虫ほか等と区別しているに過ぎません

六道の中には畜生道とあります。生き物としては違う世界で産まれた
だけで同じ魂をもっていると説かれています。
衆生が地獄に堕ちているところから産まれ、そして地獄に還るという
繰り返しであるという言い方を否定する人もいますが
その根拠を知りたいものです。
明確な根拠とは何か、私が聞きましたのは善因善果、悪因悪果
楽因楽果、苦因苦果 三世因果の道理、修因感果 自性 魂

如来の行 解脱 輪廻 厭離穢土 欣求浄土 

私が助けてほしいと想ったその時にたしかに弥陀が救ってくれた
それを感じました。今生きている世界は苦因をつくる世界
そして死後は苦因を受ける世界であると。

輪廻を繰り返し、いままでどれくらいの屍を積み上げてきたことか
その高さは計り知れないものになるそうです

私はこの世界三世全てが苦因苦果の因果の世界である限り
自ら修行して自らを済度することは不可能であると想います

阿弥陀如来は私の過去世の苦因を全て消し去り、私を苦因と苦果
の世界から仏の世界へと導き、仏にしてくれるのです。

自らが悪の塊である魂の持ち主である限り、その作るタネは
悪い実しか結びません。しかしながらこの弥陀の話の要点は
因果深信とあります。これは仏の例えでありまして
種を植えれば実がなるだろう。とあります、これはその環境の中で
あれば、自然と実が生る事をあらわしています

私が何か想うなり想わなくとも私の魂の行った因は私のわからない
因果の環境の中で自然と来世での果を招きます。
そしてそのことを因となり果となりと
なにかをしても因があり、なにもしなくても因があります
時間とともにしてもしなくても因縁を結びます
悪性ゆえにいつも因は悪果を結ぶものを作るのです

悪果はまたそれを精算したあとは悪因をつくる因になります
それが今現在の姿であるというわけです
私たちが悪因をつくるのは悪果がある証であるとはよく言われますが
その悪果がいずれどうなるかは今の行動につながります
悪果は悪因から生まれその因を消すのではありませんで
次に悪因を作る種となるのです。

私達の罪はそうやって作られてゆきます。悪性がやめられれば
その悪因を作る因を消し、善因を積めばよいのですが
自動的に生来もっている行動が悪なのです
食事、喜怒哀楽、ほか諸々です。
偽善だけれどすればよいとはよく言いますが
私は偽善だと認識してそれでも人助けを行うことはいずれ
己に返ってくるので、結局自己のためとなります
己の心を偽ってよいことをするのではなくて
自らの為になるという気持ちで行うのは良いと思います

しかし、それらの善でありましても厳然たる因果の道理から
見ますと一向に善とは生りえません

悪感情をもってはいけません。偽ってはいけません
この二つはどうしても解決できません
ボランティアの人も感謝されればやりがいがあるとおもいます
しかし不足を言われれば腹が立つでしょう。
これだけで悪因と生ってしまいます

自らの魂といいますか自性を変えなければその因は変わりません
それで初めて修因感果となります

つまり善をおこなう為には自らの自性を変えなくてはならない
己の自性さえ分からない者がどうやってそれを変えられるのか
ここで非常に難しい能力的な問題が出てきます