2010年9月28日火曜日

仏説について語ること 信心について思う事

 今日はある宗教団体の方とご縁がよくありまして、そして真宗の勧学
また特定の宗教家の意見など、感じる点について整理してみたくなりました

機法一体 修因感果 機の深信 法の深信 堕地獄のこと 救済のこと

念仏について 行信 三願 誓願不思議 無常感 罪悪感

輪廻 三世因果の道理 死生感 一切衆生 魂 業縁  不可思議

善因善果 悪因悪果  自性 正義 邪義 他力 不可説
 
意見の差をを見ます まず機法という概念です。機とは己のことです
法とは本願のことです。 行信これともに他力というのが私の主張です

次には堕地獄のこと です これは語りつくせませんし、またほんの少し
此の話題に触れますと皆さん嫌な顔をします。桃尻というわけです

しかし某宗教ではこれを教義に組み入れています。
地獄秘事というわけでしょうか、私も地獄に堕ちるという実感があり、
それを感果する故に念仏をし救済を求める経緯がありましたので
この堕地獄のことは非常に大切な部分であります。

機法一体とは単純に救って欲しいと成る事と、救いたいという仏の願いが
一体であるという深い信が如来より賜るという事を表しているのです

次に無常感と罪悪感の話ですがこれも先ほどの話とつながっておりまして
無常とはいつ死んでもおかしくないという私たちの現実をいう事です
そして悪因や宿業を抱えた状態ならば、感果によって空恐ろしくなるのです
誰かに驚かされて、例えば、お前は阿鼻地獄に堕ちるぞと脅されて感果
があるのではありませんで、自らの持っている因、と宿業により、来世で
受ける果。これは非常に来世のことを分かる人はいませんので
オカルト的になるのですけれども、なにか分からないが非常に恐ろしい
その原因は何かそれは自らの自性が産み、抱えている爆弾を抱えているから

これをなくすのは阿弥陀如来の行による成果、本願です。
因果の道理を三世で説かれるのは私とほかの衆生についての話とつながります
基本的な話としまして、霊魂であるとか魂であるものの存在を肯定しています
衆生には魂があり、それは全て等しいというのが仏説です。

即ち因縁によりまして、猫になったり、爬虫類や鳥になったり、バクテリアや
微生物、植物とありとあらゆる生命体は私と同じ魂をもっています。

そして、この過去世においてありとあらゆる生物に生まれ変わり、行き違いを
繰り返し偶然の因縁により、人身を受けたとあります

人身受けがたし です。

そして、人となって生まれ、何をしているか、否してゆかなければならないか
これが運命であり、業因縁であります。うのけにいる塵さえも己の因縁である
と親鸞聖人が言われた所以だと思います。ご縁についての話でありますが
なにが起こるのも皆ご縁である。 袖摺りあうのも多生の縁と

この諺は袖が触れ合うのも多生ですからたくさん生まれ変わった縁ですよ
縁があるからそでがすりあっていて、縁のある証拠ですよという意味です
 私はそういう世界で生きているのです。

避けられるのならば悪因を作る原因をさけ、
善因をつくれば、善果をうけます
しかし、無数の殺生の因を持ち、
それに見合う例えば苦しみを返すような慈愛の
性質は持ち合わせてはいません。自らの命を捧げて、ほかの魂の持ち主に
その欲を満たす為に自らの体を捧げる精神を魂を持っていません

むしろ殺されれば、必ずやりかえす。仇を討ちたいと思うのが本音です
私と同じ魂をほかの衆生ももっているということです。
仇を討ちたがっている魂が無数に存在し、
お互いに報復しあうと経典にあります

それを因といい、死ねば果を受けるとあります。
このような一部分でさえ恐ろしい
しかしながら、ここでまだ踏ん張る心があります。
私は良い部分もあるし
良い事もできると、しかしながら
、ひとつの殺業や殺因でさえ解決できません

そうなれば結果は明白でしょう。善因善果、
悪因悪果の理により次の生で
受けるのは苦か楽か。

いえ私はそれを繰り返してきたのです、
殺し、殺されというより、苦因と苦果の
繰り返し、今の世界は苦因を造る世界です、死ねば苦果を受ける。
そしてまた苦果により苦因をつくる。 
これを痛ましいというよりも常没と
善導大師は説かれています。常没であり輪廻流転を繰り返す

浮かび上がることのない身であると、
そのそもそもの原因はどこにあるか
それは魂の性質にあります。己の魂が良いものであるならばその果は良い
しかし、己の魂は悪いものであるならその果は悪いと成ります

果が悪いのは魂が悪いからです。 
その性質が悪いので悪因をつくってしまいます
悪因をつくる自性 新鮮なとはいい言葉です これは若くてうまそうだ

こういえば非常に恐ろしく聞こえますが
私のとっている行動を主客を変えてみます
例えばかに鍋を考えて見ます。 鍋に放り込まれくるしい 
魚や魚介類は海水が
平均ですので、普通の水温でも人の熱湯に感じるそうです。
苦しんで助けてと思っているか、うらんでにらみつけているか分かりませんが
私のほうはごめんねとこころで笑う
これからうまい味覚を味わうのだから
ありがとうと感謝しています。むしろ嘲って、虐げるのが当然と考えます

かにや肉や米、野菜などには権利がありません。生存権などない
食事に供されるのが当然と。

殺されるほうからみますとこれが逆転です。お前には生きる権利がない
おれに食われるのが当たり前だ、食われても仕方ない、おれが死ね
若い方がうまいから早く死ね さらにまずければ吐き出す

話を戻しますが、一切衆生は皆同じ魂をもちと仏説にあり、
いろいろな体に生まれ変わっているだけだというのが
輪廻です。

これは善因ですか、悪因でしょうか、この心はやさしい良心ですか

私は自らの心が悪ゆえに悪因しか作れないという仏説は合理的である
そして死ねば恐ろしいのは悪因をたくさん抱えているからである

その悪因を全て消してくれるのは仏である
此の世界にいる生き物は自らの因縁に束縛される
悪因悪果、善因善果の世界に生きている

これは全ての生き物に当てはまります


この世界からでるということは悪因悪果、善因善果の世界から
無為といいましてそういった束縛のない世界に生まれさせるということ
これを解脱といいます
そして、ただ解脱させるだけでもすごいことなのですが
仏にするというのが阿弥陀如来の願いです

私の心に良い心を加えて、仏にするという事です

厭離穢土 欣求浄土 

この世界は苦しいぞ、苦しいことしかないぞ、助けさせほしい
私が本願をたて修行したものがあるからその力で
助けさせてほしい。

悪因を全て消して仏にさせて欲しい

願作仏心 度衆生心

南無阿弥陀仏 南無不可思議光

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