2012年4月8日日曜日

つづき2

これを端的に表現していると思う説が、衆生、怨

をもって悪をなす、皆これ同じ往生要集で、地獄の

獄卒が衆生に向かって説くところです。

殺したにくい相手だから、その怨念は生きていて

仕返しを必ずしてしまうということになります。

つまり、悲しいことに、私たちはそれが当たり前

なので、そのことさえ気がつかずに、やられたら

やり返すのは当然のことだとすべての人が思って

います。確かに、殺された相手に殺すのをやめ、

一方的に苦を受けるだけで、そのし返しをしなければ

またしようとしなければ、悪因はできないのだと思います。

この残酷極まりない、自分の自性を垣間見て、慈悲の

念など全くない自分をみて、自分の行きつく先は

一体どこなのだろうかと、一体どこから来て、

どこへいくのかとなった時に、私はこの世界から

出して、悪因しか作れない自分のために、代わりに

信じられない長い、長い苦しみの、壮絶な苦しみを絶え

そして、出来上がったものの力によって、私の悪因を

肩代わりしてくれる仏がいる。このどうしようもない

この世界から出してくれる仏がいると。

南無阿弥陀仏というのは、阿弥陀如来の行をたのめと

自分の力ではできないのがわかっているから、

どうか私の力を頼ってくださいと向こうの方からお願い

しますと、無理を承知でお願いしますと頼んでくださって

私のようなもののために、わざわざ苦しんでくださった

仏の力を何もしないでいいからと、私にすべてまかせておくれと

向こうの方から包みとってくださるのが阿弥陀如来です。


南無阿弥陀仏。 まかせるとは、自分のちからでできないことを

ほかの力によってしてもらうということで、そのまかせる中身は

自分のやってきた、行いと、その結果です。

死後少しでも不安のある方は、阿弥陀如来にまかせてみてください。

まかせてみようかなと思い立つ、そのときに救われるのです。


だから、蓮如上人は、南無というは帰命なり。帰命というは、

弥陀を一念たのみまいらするこころなり。

また、発願回向というは、

たのむ機に、やがて大善・大功徳をあたえたまうなり。


その体すなわち南無阿弥陀仏なり

たのむというところは、まかせるということです。

それが南無です。

そして、そのまかせようと思ったときに、

またたく間に、大善、大功徳を与え給うと


その体、すなわち南無阿弥陀仏なりと


南無阿弥陀仏

つづき

衆生とはすべての生きとし生けるものを指すことは

以前から言っているとおりでございまして、私の

姿がただ人の姿をとっているのは、この魂が、人の

肉体を受けた故に人なのです。これが、牛や他の家畜

あるいは、虫やいろいろな生物だとすれば、その姿に

生まれ出てくるわけです。 すなわち、ほかの生物の

姿や行動からも、因縁果が見られるわけですね。

強いものは弱いものを食し、すべて繋がっている。

殺した者は殺され、その繰り返しをする。自分の

殺した相手も、自分で手を汚さないまでも、何がしか

の命を奪わなければ、生きてはいけない。これは

殺因を成さなければならない世界で生きていると

いうことになるのではと自分は思いました。

つまりは、殺された果があったから、今殺すのであって

何気なしに殺生を行っているわけではないということです。

殺果ゆえに殺因を成すということなのです。

死の今際に

人は必ず死にます、そして、死の今際に、もし信心が違い

暗闇に向かわんとなれば、その恐ろしさは言葉では

とても表現できないものとなるでしょう。

厭離穢土、欣求浄土。穢い身体を捨てて、浄らかな

身体を受ける。このようになれば良いのですが、

また多劫を経るというようなことになれば、不幸ですね。

欲生我国、摂取不捨。この穢土を厭い離れ、浄土を欣い求めよ

我が国に生まれたいとおもえ。捨てて離さなさいとあります。 

今の生きている世界を離れて、阿弥陀仏の国に生まれたいと

おもえとあり、その意味をきくことがそのまま、

仏説になります。三世因果の道理しかり、善因善果

悪因悪果の理、衆生の怨をもって悪をなすという言葉しかり

因果輪転して絶えることがなく、常に身に従う。

殺因は殺果であり、悪の自性ガなす因は悪の果を招く。

悪性の衆生どうしで、悪因縁を増やすことがあっても

減ることはありません。常に身から口から意識から

自分の姿を知れば一体何をやっているのだろうかと。

私の受けた話は、往生要集にある一説で、衆生は

怨をもって悪をなし、皆これ同じ。

短い一説ではありますが、核心をついています。