2010年2月20日土曜日

端的に

 今日はもっと端的に簡単に書いてみようと思います。
 自分の魂と心と行いは罪体とか唯知作悪であるということですから。
 悪い結果しかもたらす事しかするしか能力がない。
 まずこれがひとつの現実。 そこで仏がいます。
  仏は善い結果をもたらす事をする結果を
  もたらす行いをすることができる。能力がある。
 だから仏に自分の行いによる結果をたのむ心をすてて
 すべてしてもらうのです。それが南無阿彌陀佛です。
 
 地獄へ落ちることを勉強すれば助かるのでもなく

 如来の心と能力を信じれば助かるのですね。
 しかしそれが自分の能力を信じるのではダメだと、ダメですね

 信行を受けて持つこと甚だ難しい。邪見驕慢悪衆生
 この話はですね 私たちが阿弥陀如来に願掛けをするように
 功徳をねだりつつ、自己で本願をつかみ結局は自力を信じているのに
 自分の悪業や悪魂についての反発や不信から仏に対して恨み事を
 いう本性を哀れんでいるような気が私にはします。
 
 簡単ですよ仏に全てしてもらう 甘えるだけです。
 自分ですることこの中に三業 身口意すべて悪果を招くと
 あるんですから、何をしても悪果を招くんです。
 それとは対照的に仏は身口意すべて慈悲です。
 その気持ちに甘えると仏の国に生まれさせてもらって
 仏にしてもらえると。その原因は仏が作ってあるよと。
 ただ自分は悪くない、悪いことをしていないと思うのが
 私の本当の気持ちですからその仏の声を無視して
 悪果しか作れないのに善行ができるかのように思い
 そして悪の本性であるのにそれは自己否定だからと
 いけないと見事に自分で肯定する。
 各欲快意 自分の快いことを各々意うと
 全ての欲望は各々自分が気持ち善ければいいという結果
 を満たすためのものである。
 当たり前であることが悪果を産む源です。
  
 どうしようもないことを苦というそうです。
 どうしようもないことからどうしようもない結果を
 招くことを後生の一大事というのです。
 食事で他の生命を奪うことも悪いことを考えることも
 親兄弟でさえ、自分に都合が悪ければあいつがいなければ
 と誰でも心で殺してはいないでしょうか。
 そういうことは本性ですので治りません
 どうしようもないのです。

 どうしようもない現実から逃れる術は、阿弥陀如来が
 悪い結果しかつくれない私に代わって仏にしてくれる
 私にできないことをしてくれているんですから。
 その因はその力は間違いがないのです。
 厭離穢土 欣求浄土 どうしようもないのだから
 仏にすべてまかせるのです
 
 南無阿彌陀佛


 

2010年2月7日日曜日

月愛三昧

 今日はちょっとマニアックな話を書こうと思っています。
月を愛すことを三昧するという表現が聖典に出てくるのですよ。
月って綺麗ですよね、私は好きです。別におおげさに月を愛さなくては
いけないのならこんな表現は適当じゃないですよね。愛月せよみたいに
書いてあるはずですからね。そうじゃないですね。これは状態を指して
いますよね。月を愛してやまない気持ちになるという事ですね。
でも意味があるんですよ。月って信心にたとえてあるんですよ。
月ってみなさんご存知のように太陽の光が反射して夜空に輝いているの
です。月が輝くのは太陽の光の力です。眺める人の心に住むという
話とは別の話ですが、つまり、どういう事かといいますと。月の
状態になれば、月が好きになるということです。自分の心が月とすれば
その光は太陽に照らされて輝くということを実感するということですね。
太陽は月をすでに照らしていますが、人それぞれ照らされるべきは
阿弥陀如来の光であると私は思いますね。南無阿弥陀仏
善導大師の疑わざるべきことを疑うことを恨むべきと
ただ廻すると廻さざるににあり。ということば
この字は周り巡るか廻巡らないかにありとありますね。
同じでしょ、月と太陽と。
私たちは阿弥陀如来を中心に廻る月のようになるか
ならないかにあるという事ですね。
面白かったですかね。今日は以上です。

2010年2月4日木曜日

 自分のこと

 私は自分が信の話を聞いたときに思っていたことを書いています。
ですので告白でしかありませんので、またそれを聞いた人は
信心為本の道理からしますとそれで信を得る事は難しいのかもしれません。
あなたの為に仏があなたに仏の心を説いてくれなければならないのかなと
個人的におもっているのです。ひとそれぞれ考えている事が違いますし、
また私の周りにもなかなか信心を得られない人もいますし、また簡単に
得られる人もいます。仏が仏の話をしてそれを聞く事を聞というのです。
こんなことをいうと善知識という人が
仏のように思われてしまう感がありますが
そうではありません。
信が仏の心ならその信を本として仏の心が伝われば信が
得られるのです。
人の為と書いて偽りと読み、凡が工夫する心と書いて
恐ろしいとよむ。われわれは智慧がなく、悪い善いも分からず、
因果もわからず地獄もないものとし、
極楽へ連れて行ってもらえると思っているのです。
しかしながら、現実は自分自身に如来の心はなく、
ただ世界が変わったかの
ようにいうのは危険なことです。
自分のことについて少し書きましたが、自性が
悪いということは、恐いことなんです。
一番認めたくないことなんですね。
地獄へゆくということは本当は自覚があるものです。
しかし、それをもって
信心であるかのように思う事は危険なんですね。危うい本当に危うい。
信心は仏の心を自分がもらうことです。
自分の心というのは魂は鬼と云うと
書くのです。殺される相手からみれば非情な鬼でしかないのです。
それが私の本当の姿なんです。その魂がこの体を借りて、
そして今まさに
その魂で悪因を作る、因果は天地神明の道理、まいた種は必ず生える
まかぬ種は生えてはこない、この因果は前今来続いて終わることはない
これを輪廻といって巡り巡って
今また罪を作り、また償ってはまた生まれを
繰り返すのである。つまりこの今の世界は罪を作る世界です。
来世は償う世界というわけです。
順番に入れ替わり立ち替わりをくりかえすのです。
終わることはありません。
仏の目からば見れば、苦の種をつくることをするか
苦の果を受けるかしかでないといわれて、
それは全ての生き物が全て同じに
見えるとのことなんです。この世界を離れ仏になれば、
苦の連鎖である因果の
世界から抜け、仏の世界に生まれ、仏にするとの誓い。
厭離穢土、欣求浄土
この世界を厭い離れよ、
私の国に生まれたいと願えというのが仏の声です。
仏が数え切れない苦しみ
のすえに悩み苦しみそして修行し成就してくれたのです。
自分の悪果というものはすべての私の行いを指しています。
ひとつとしてそれが
悪で無いといえるものはないのです。
理由は自分の魂の姿が教えてくれます。
理性とはそれをごまかすもの。本性のままでは社会が成り立たないので、
法律があるのです。理性とはきれいに思えますが、
よくみると自分の本性をいいもの
であると思い飾っているに過ぎません。
あなたは悪いといわれたら私も怒ります。
結局は欲が形を変えて
自分の生活のためにお互いに害がないようにしているの
です。それが悪いということではなくて
理性で自分が悪いことをしないように
していると思いこんでいるに過ぎないということです。
結局自分の魂の中は
自分でも見ようとしてもなかなか分からないのです。
ですが悪いものであること
は日々の生活で分かるものですし、
食事ひとつにしても何かの命を奪うのです。
それでも自分は悪いとは誰も思わないのです。
それを煩悩といって自分の本性
を隠すものなんです。悪いことをしているのは
分かっているのに悪いと思えない
のが自分の姿であるといえます。
そしてその罪を償う気持ちは全くないのです。
立場が逆転したとして、自分が食べられるほうにまわったとしましょう。
そのときわたしなら全力で逃げようとするでしょう。
しかしおいしそうだといって
つかまって食べられてしまったら。
私は相手を恨むでしょう。忘れないでしょう。
同じなんですよ。私も相手も。
そしてこの因縁は過去から今まで永遠と続いてきたのです。
仇なんですね。どれくらいの仇と殺し合いを繰り返すのかという事だけ
でもすごいことなのですが、
それだけではなく、この魂でどれくらいの悪因を
作っているのかということですね。
魂がよければ逃がしてあげるかということです
が本当にお腹がすいていたら絶対食べます。
自分の欲は自分の魂の原動力という
ものです。そのことを責めるのではありません。
それが当たり前なんです。
そして死んでからその報いを受けるのも当たり前ですね。
誰も避けて通れないのです。
今生きている間に奪った命を今の自分の命で償えないことは
誰でもわかりますよね。1対無数です。
自分の魂もいいものではない。だとしたら
因果の道理に照らしたらどうなるか明明白白です。
その罪、悪因が自分に宿っている
ということです。それを宿業というのです
。終わりの無い過去から作り続けた罪
悪業を全て滅ぼす力のある仏が阿弥陀如来です。
助けて欲しいといえば全てたすけると。
欲生我国とは私の国に生まれたいと欲え、
欲えですから今この世界から離れ阿弥陀如来
の世界に生まれ、仏にしてもらうといことです。
私は悪いことしかできない魂と罪しか
ない。その上自分に力がある善いものであると
思う愚か者でさらに自分が賢いとおもって
いるのです。そんな私だから阿弥陀如来は助けたい
、助けさせてほしいと常に泣いておられたのです。
南無阿彌陀佛 南無阿彌陀佛 仏典は尊く信は尊い仏も尊いのです。
如来の心の力に如来の信を如来からたのませてたのみと。
阿弥陀如来は全ての衆生を助けたい
と今の光を放ち続け全ての衆生が救われるその日まで。
帰命無量寿如来 南無不可思議光 
助けてという一声が南無であると私はおもっています。