2009年11月11日水曜日

信一念

 南無阿彌陀佛という一念は仏の助けたいというお願いと私の助けて欲しいという思いが合わさったときに機法一体となって現れる、お任せするのは、返事は簡単になんでもいいから、遇えば終わりである、こういうとお任せする心にならないといけないと思う人が多いのだけど、もともと私のほうは助けておくれという心を持ち合わせていないから、向こうからお願いされる姿になっています、それに対して了解すると終わりなんですが、後生助けたまえと申さん衆生ですから、助けたいということの中身くらいはみちびいてもらわないと何が何やらわからないはずです、簡単にいいますと阿鼻地獄に無量劫のあいだ落ちてでることがないということなんですが、それをいいますとなぜ今生きてそれなりに楽な生活ができているのか、という矛盾がでてきます、それはおそらく阿弥陀如来の功徳かなと思うことがあります。私の方を見ますと唯知作悪と悪いことしかできないということに確信をもっていますが、ここのお導きが適当に終わってしまうことが怖いんですね、そういう言われ方ですと腹が立つんですが、善ができないということを説かれる場合もあります。布施なんてほんとに不可能です、もともと釈尊が生きていたときに言われたとおりにした人のみができたことがほとんどです。つまり善ができないことを知ることが悪業を消す術がないという事につながるんです、故にまた唯知作悪とは善ができないから、悪をつくることしか知らないと概念上はなります、ここの話においても因果の道理というものから外れることはありません、詳しくは三毒五悪段という観無量寿経下段にありますが、あの内容が私の生活の内容と外れることがないということにこの話の要点があります、因果の道理は全て果報を受けるということですが、死んでから
殺し合いをし合って終わることがない世界にまた生れると。畜生界ならいいですが娑婆世界にうまれることはまた難しいんです、人間の姿に生れるのも稀ならば、またこの世界に生れることも稀なんです、

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