2009年11月9日月曜日

私は布教目的で書いているわけではありませんが真宗の教義について説明するのも実は問題があります。わからない話を書いて批判する、される世界になると法を謗る咎があるということですので、その意見が正しいか間違っているかということよりも自分の意見が及ぼす影響について鑑みて書かないといけないと思い自分のことの告白か、まぁそうですね、自分が悪い人間であると一生いわれた宗祖のように真似はできませんが、自分の内面は愚かにも常に阿弥陀如来よりも偉く、善いものという思いが消えることはなく、鼻にかけているのだとよく言われた方の顔を思い出しながら、コメントなり、なんなりして、聖典を汚すことのないよう、そのまま自分の信のまま、ひとりつらつらと書いていこうと思っています。ですから、誰かの意見に対してそれは違うとかあってるとかいうつもりがないということですので、私に質問されても説明はしますが、他の人の解釈についてはご容赦して頂きたいと思います。往生要集という聖典について触れてみたいと思います、厭離穢土、欣求浄土これは、機法一体の内容そのままです。厭離穢土が後生助けたまえという内容で、欣求浄土が一心一向に阿弥陀如来をたのみ申すという感じです。ですから、機の深信はこの世界を厭う穢い土を嫌と思い離れよ、欣求浄土とは浄土に生まれることを阿弥陀如来に任すと生れたいと思うのと、任せるのく、重要で、欣求浄土、厭離穢土になっていないことが大事なところであります。私は自分の善悪について知る智慧に欠けていますので法によってのみしか、己の悪さに気づくことはないのであります。しればしるほど恐ろしいものがありまして、私はその話があまりにも恐ろしいものでしたので、自分は悪いということを言われて安心できる世界があるといわれてもなかなか信用できないのも無理はないと思いますが、私は自分の罪悪や自性についても聞いたことをそのまま書いていこうと思いますが、あとは聖典に頼ろうとおもっています。今日はここまで。

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