2009年11月15日日曜日

信は難しい

 しみじみと思うのが親とあっていない淋しさを告白する人がいて、その人に説教を公開の場でする事に抵抗を覚えますね。遇えば終わりなんだけど遇えない淋しさは向こうのほうであって自分は本願の内容も知りたくない、わかりたくない、聞きたくないと心を閉ざしていることを気づいたら話は早いと私は思うけど、それをいわれると腹たつやろうしね、難しいの中にも難しいとはこのことだ。おなじ様なことをいう人もたくさんいるだろうけれど、堂々巡りを繰り返して無駄足ばかりでつらいことであると思う。自分の悪業は宿因といいますから、宿因は宿業があることを示し、宿業があるゆえに宿果もあることを示す。これが因果の重要なところである。宿因は宿果を生みだしていくんですが、現当二世の因果はよく信じられますが、前現来三世の因果はないように思う、これが迷妄の元です。せみの話はここの意味ですね。

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