2009年11月15日日曜日

自力他力事

 まづ自力の心というは、『身にも悪きことをばせじ、口にも悪きことをばいわじ、こころにも僻事をば思わじと、斯様に慎みて念仏するものは、この念仏の力にて、よろづの罪を除き失いて、極楽へ必ず参るぞ』と思いたる人をば、自力の行というなり。 他力の念仏 『わが身の愚かにつけても、かかる身にてやすくこの娑婆世界を如何離るべき。罪は日々にそへて重なり、妄念は常に起こりてとどまらず。かかるに就けても、ひとへに弥陀の誓いをたのみ仰ぎて念仏怠らぜれば、阿弥陀仏かたじけなく遍照の光明を放ちてこの身を照らし護らせたまへば、観音・勢至等の無量の聖寿、ひき具して行・住・座・臥、若しは昼・若しは夜、一切の時、所をきらはず、行者を護念して、目しばらくも捨てたまわず、まさしく命つき息たえんときは、よろづの罪をば皆うち消して、めでたき者につくりなして、極楽へ将て還らせおはせしますなり。されば罪の消ゆることも南無阿弥陀仏の願力なり、めでたき位を得ることも南無阿弥陀仏の弘誓の力なり、遠く三界を出でんことも阿弥陀仏の御力なれば、一歩もわが力にて極楽へ参ることなしと思いて、余業を雑えずして一向に念仏するを『他力の行』とはもうすなり。

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