まかすことができればそれで終わりであるとは、よく言われることでありますが、一体何を任せるのか、何でまかせるのか、どうしてまかせなければならないのか、たくさんの疑問があるはずですが、単純にまかせれば本当に楽なんですけれど、行者のわろき心にては助からず、弥陀のよき心にてたすかるゆえに、まことの心とは申すなりとあります。これがすべてです。これを知らせるが為に因果や罪業の話を通して、自分の心が悪いものであることを知らしめて、阿弥陀如来の心に救われるしか術がないことを示して、その心にゆだねる、いつも働きかけがありますので、阿弥陀如来は常にお願いしているんです、全てのひとに不断なく絶え間なく。私なんかは他人にあまり関心のない冷酷な人間なんです。わかっているのに勧めることができませんし、またしてもほとんど断られるのが普通ですからね。でも悩んでいる人の声を聞くと、もったいないなと思います。すぐそこに手が届くのに、まさに宝の山に入りて手を空しゅうすることなかれ、という感じでしょうか。
阿弥陀如来は常に信をあたえようという働きかけがあります。まかせるこころや信じる心をあたえてくれます。そのことによってしか救済されることは私には他にはない。他の人はわからないですが。阿弥陀如来の心にて助かるゆえにまことの心という。しかし、ここの話はデリケートな感じがします。条件があるではないかという話、ここは月は眺めるひとの心にぞすむ。私は釈迦如来がねんごろに教えた因果の道理がそれぞれの人の心を映す鏡であると思います。法に照らされ始めて自己を知ると、法に任せることができるのですから、その法を正しく説けば全ての人が信を得ることができるはずですが、経の中に必ず口授を用いよというところがありまして、文章で表現するには限界があるんですね。ですが一応は因果の道理や、諸々の罪業の話があります。自分の罪業について話をしてそのわけは自分の欲望を満たすと気持ちがいいからであるという話をします。そしてそれがいいものか悪いものかしらべて自分の欲について少し経から考えて見ます。地獄に行くとか
極楽に参るとかいう話とは根本が違います。この勘違いが一番恐ろしい部分です。お浄土に参るとか地獄に落ちるとか、だれがわかるものがいましょうか。はたして居るでしょうか。私は居ないと思う。ただ死ぬのが怖い、後生は不安である、自分は罪を少しは作っているということがわかるくらいではないでしょうか。
しかし自分の罪業がとてつもなく深く重いものであるということを私の心を通して書いてますので他の人の思いについて書いているわけではありません。ですから自己を激しく責めるととてもつらいのでそれはやめるべきです。すくなくともこの法と阿弥陀如来の名を聞いている人は本願の力によって強く導かれていると私は信じて疑うことはありませんから、もし今生空しくすぎてもまた法を聞かれることでしょう。しかし早く求めるほうが得が多いです。本題に戻りますが簡単なんです。たすけさせて欲しいというお願いはいつもあなたに呼びかけられているんです。ここでキリスト教の話をしますが、キリスト教では信じるものは救われる、という教えですね。仏教は信じることはできないものに信じる心を与えよう、信じる力がなくても信じさせてあげよう、任せる心を与えようですね。後生たすけたまえとは、自分の罪業や悪果をすべて消して仏にするという仏の行に任せるということですがここに一心一向という言葉がつきまして、これが難しい上にもまた難しいはなしなところです、二心なくとかあります、これはやはり信の話をしてもらわないと無理なんですが、その内容は人それぞれ違うのが普通ですね。なんと表現したらよいかわかりませんが義なきを義とするというのが答えです。もともと本願の働きは生きていますから今あなたがお任せしますと念仏してくだされれば終わるかもしれません。信は頂き物であるとだれかよくいっていますが、是について異存はないですが、因果の道理が信ではないですが自己を写す法であることをいって今日の一人ごとを終わります。
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