2009年11月8日日曜日

いいたいことは面と向かっていえとよくいいますが、本当にそのとおりだなってよく思います。信心の話をインターネットで公開するというのは、実は大変負担の大きいことではないだろうか。自分の心のうちを正直にネットで公開するのには、匿名性があるとはいえ勇気のいることなんだろうなと思う。そのうえ
どちらかというと聞き苦しい話をしなくてはいけないし、聞くほうも話をするほうもできるだけ触れたくない部分というのがあると思う。本当にこんな話をもとめるのかなって話ながら思いつつも縁があれば話をするだろうし成り行き任せな自分は人に勧めることは滅多にしないしできないですね。今の関係が縁が切れる覚悟がないとこんな話はできないから友人に勧めるのは本当に大変勇気がいることである。だから当たり障りのないことを書いて適当にすましてしまおうかどうか迷っているのが本音である。信心の話は今の真宗では禁忌のようだし、また同行がおそらくこっそり話を親近者優先でおこなっているのが現実であると思うな、インターネットでそういう話を集めて出会いたいという気持ちもあるが、まずは自分の身内からというのは人情である。それで他人に勧めるかというとまたこれが難しいのでなんとも情けないが自分に話をしてくれた人に感謝してそういう思い出を回想しながらなんとなくだれか一人でも縁があればなーって思うのがいまの偽らざる心境である。親鸞上人や蓮如上人の子孫に偉そうに言える筋合いがあるはずもないので本山に文句をいうのはやめようということである、しかしいつからか、統制
されて信心の話が人集めの詐欺に使われる昨今信心があるなしの話ではなくて、信心が存在するかしないかというような話になるのは嘆かわしいというより寂しい。またこの話が廃れてきたら還相廻向のかたが本当の慈悲をもってして世を導いてゆくかもしれないから、なにも批判しなくてもよいと思うこともある。自分は能力も親切もかけているのでやろうという気すら持ち合わせていないな。

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