2011年6月18日土曜日

つづき1

私もこの話を聴いて、即座に否定している自分がいました。
死んでから、自分がつくった種が実になって自分に襲い掛かってくる

そんなことをにわかに信じられるものではなかなかありません
しかし、この話を否定することも出来ませんでした

奪う命も自分の命も同じ命、そして、その命を奪わないと生きられない
ということは相手を殺さずにはいられないわけです。
これは自然におこっていることです。避けようがないんです
私たちはそういう世界で生きている。他の生き物も同じ

避けようがありません。また次の世界で苦しみを受けるのもまた避けようが
ありません。これも他の命も同じ。そうすれば、この世界から苦しみの世界に
たたき落とすという残酷なことを日々しないと我々は生きてはいけないわけです

そして、苦しみを永く受けた後に、偶然、盲目の亀が大海原で流木の穴に頭を
出すくらいの確立で、人間に生まれると説いてあるわけです。

そして、自分の欲望の為に生きて、そのようなことを全く省みることもせず
ただ日暮し、そうしてまた元の世界へ皆帰って行くわけです

それを痛ましい、苦しいだろう、かわいそうにと、私の罪をどうにかして肩代わり
したいと、永く永く苦しみぬいて、私には到底できないものすごく大変なことを
して、救う力を身につけた仏が阿弥陀如来です

しかし、我々は因果などない、罪をつくっているけれどそれを受ける世界などない
また、自分はそれほど悪くはない、こんなもの必要ないといってはばからない性格の持ち主
なんです。ゆえに救われないのです。

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