2011年11月3日木曜日

南無阿弥陀仏と言って見る

南無阿弥陀仏 よく、憶念の信とありますが、私が思うには、
信心を得た人は、如来が代わりに念仏をしてくれますので
その感謝、報恩になるという。有難うございますという意味
で念仏をするということになるのだろうなと感じております。

三世にわたって因果があり、無数の因縁から逃れられること
はなく、自分の因縁によらざるものもなく、縁に催されれば
いかなる事もするというのが法の意味でもあります。

しないのは自分が良いからでもなく、ただ縁に触れないだけ
こういう話が一番分かりやすいであろうとも思いますが、
なにを言っているかというと、結局、悪いこと、例えば他の
生物の命、を奪うのはそういう縁があるからであると、
しかしペットを食べるという縁はなかなかにありませんで
そういう事をする人はいませんよね。

これは自分の善し悪しに関わらず、因縁で全て決まるという
実例でもあります。しかし、殺因は殺果を産みます。
また、そういいますと、やり返してやると負けないという
ことをいう方も居られたわけですが、どちらにしても
縁ということがきっかけで愛したり、殺したりするわけです。

たまたま、愛らしいと思った者が生き残り、それほどでも
ないと思うものは殺される運命になるわけです。
これは私達がコントロールしているわけではありません。
どうにもならないわけです。家畜として生まれてきた動物達
や食用とされる植物たちの命は私達を同じであるというのが
一切衆生という言葉に収まるのですからね。

つまり、今は、ちょうど罪を犯すタイミングでありまして
勝つ側に立っているわけです。これが臨終を迎えますと
負ける側に立つと、また負けないといわれますが、この家畜や
植物達が勝てる要素はどこにもないわけです。

そしてそれを償う術があるとして、それをする心があるかと
言えば、全く持ち合わせていないのが自分であります。

自分の自性を観察すると、ここで良いものであるはずがないと
生きるためなら、いくら殺しても命を奪ってもなんとも思わない
残虐なことをしなくては生きてはいけないわけです。

さらに食べ物の番組などをみていると胴体が半分動いている
活けつくりなどということを喜んで食しているわけですから
また、植物にしてみましても同じで、命を奪っているわけです

殺される側に立って、客観的に見れば、地獄の鬼の姿
またそれが返ってくるとなれば、その先はどういう報いを
受けうるかという事になるわけです。

この悪の自性をさして、魂という言葉があてがわれ
鬼と云うと字にあらわす。その悪の自性が作る因は
悪因でしかありません。さらに受けうる結果はすべて
悪果となると結論付けられるわけです。

さて、この悪果、悪因いつから造っているかといいますと
終わりのない過去いらいとあります。つまり今から
さかのぼって、終わりのない過去から今までずっと
悪の自性で悪果を造り続けてくるわけです

さらに今現在もそのままです、これを変えるには
自分の自性を変化させねばなりません。

悪性さらにやめがたし、こころはとつづくわけです。
いずれの行も及びがたき身なれば地獄は一定すみかぞかしと
なにをしても自分の悪の性分が変えられないと

それで、さらに云えば、無常の風きたりぬれば今すぐに突然死
するかもしれない私達。

この地獄の話は本当に恐ろしいものなのでありまして
聞くだけでも怖い、話すのも難しいのだそうです。

聞くものがすべて聞き、話すものが全て話し、書くものが
全て書いたなら、その場で死ぬとあります。

みんな嫌がるのは当たり前です。しかし、私が思いますには
その恐怖の原因は、自分が作っている悪果の存在にあると
思うのです

これはそれを示す経で 修因感果の道理があります
悪因は苦果を感じ、善因は楽果を感じると
つまり、自己の感覚で、死ぬのが怖い、なにかわからない
けれど怖いという人がいましたら、それはあなたの造った
悪果がもたらす結果をあなた自身が感じているかもしれない

その可能性は誰しもが否定できないものなのです。
もしそう思うのならば、怖いのならば、阿弥陀如来に
その悪果を片付けてもらいましょう。

それが当てにするということなのです。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 そうすれば、この
どうしようもない世界から 仏世界に生まれさせ

仏にするという誓いにほかなりません

南無阿弥陀仏。

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