2011年2月22日火曜日

そこでもうひとつ

機根つたなく とは つたないとはおぼつかないとか、能力が足りないという意味なのです

これをわかりやすくいいますと、数の自然というのが因果の通りにつながってゆきます

また自性が善いか、悪いかという部分を整理してわかってもらう必要があると私は考えます

己の能力と己の自性、この二つの性質、またこの話の上に今の生きているこの世界の性質

まず因縁ということ、自性、そして、自分の能力、そして結果どうなるかという流れで

きちんと一足とびにならないで、確認する必要があると思っています

これらを確認してゆけば、自ずから結論が導かれてゆくのです

しかし、信心の相続という話になりますと、そこはある人に相続してもらう必要があります

この確認作業とでもいいますか、ここは定義ではなくして、自分のことを確認するという

そういう当然のことをして仏の話と一致するか確認してゆくだけなのですね

因果応報ときいて、おそろしいと感じなくなるまで、修因感果によって修行するか

また、自力で念仏をして、他力を体得するまでし続けるかなどありますが

なかなか辿り付ける道ではありません。 それよりは自己の姿を見て、自己の行いを見て

また、自己の生きている世界をみてどうするか決めるというのが信心に近くなる道だと

聞いたことがあります。

まず、生き物を殺す、感情のある魂を持つ衆生を殺してもなんとも思わない心をもっている自分が

います。言われたら、自然と眉間にしわを寄せ、恐ろしい形相になって相手をにらみつけている自分が

そこにいます、泣いて命乞いをするそうです、家畜は殺されるときに車に乗るのを拒みます

これは本能がそうさせるのでしょう。これはひとつの因縁だけではなくて、私の自性を現している

例えでした、そういう鬼のような自性を持っています、そして因果論という真理から、よい種と悪い種

どちらをつくるだろうか、それはこの恐ろしい自性を持つ自分がつくる本心がどういう性格を持っている

か考えることにしますと、批判され怒り心頭な自分の本性を見るにつけ悪い結果をつくるのが当たりま

えだという結論に至ります。 殺される相手が悪いという心さえ持っているのですから、相手が立場がい

れ代わり私を殺す側にまわるときが死ねば来るそうですが、それだけではありません、自分の心の性格

善い種をつくるのか、悪い種をつくるのかはその性質にかかっているのです

魂という文字は仏語でしょう、鬼と云うと書いて魂、人の為とかいて偽りです、これが私の本性です

そういいながら不快な心持にさえなるのです。

そしてその鬼と云うものがつくる因を消すにはその鬼がしたことをして返さなくては消えません

ここで能力というところがでてきます、自分の身を削って、おなかのすいている鬼に供養できるでしょう

か、私はできる人はいないと思いますが、そうして初めて、自分のしたことを償って罪がひとつ消えると

なるのでしょう。つまり、悪因をひとつ消すということさえできない者が、悪因しかつくる性質をもっていな

い魂をもっているということが、後生の一大事をうむという結論に導かれていくことになります


ここで弥陀の救済がありますということになり、この悪因を消す力を弥陀は持っています、そしてそういう性質の持ち主だからこそ、救済しなくてはかわいそうだということで修行され、念仏ができたのです


どうすれば救われるか、それは非常に簡単なのです、先の後生の一大事を心にかけてとは

死んだらなにかわからないが非常に死ぬのがいやで怖いとなるのは地獄があるからではないかという

不安があるから、それは自分が地獄という自分でつくった悪い種が自分にあるからということになります

それを心にかけて、その種を自分で処理できないから、阿弥陀様にお願いします、この苦しい種を消しとってくださいとお任せすれば、阿弥陀様はよろこんでその光の中に収め取る、決して離しはしません

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