2013年9月14日土曜日

願作佛心と度衆生心と、私

いろいろな事を言う人がいます。何も自分の罪悪を知らなくてもよい、


あるいは、何も分からなくてもよい、ただ任せよとか、または 今、助けてくれるとか

、またもや何かしらああせよ、こうせよはないとか。

 機に執われることを雑修の失と言い、これはこれで煩悩のなせるわざです

それは、自分のことにとらわれることですね、しかし  罪悪感には意味があります。

ここを否定する教義は危険なものなんです。 

修因感果の道理により、死後への恐怖が成り立つことは

、悪因をもち それから逃れられないことから悪業因縁によって悪業果の世界に旅立っていかなくては ならないのですから、

仏説は嘘ではないのですから、要するに信心の条件としての 罪悪感ではなくて

死んだら怖い、死ぬのが怖い原因は何なのか?

 それは、悪業、悪果を招くもの、つまり悪因縁を積み重ねていくしかない

私の 恐怖心の源はなにか?それは自分の心と自性が作り出すものの種、

それの結果を 先に予測できるから、死ぬのが怖いとなる。 

信心を得るということは、

その種を すべて、仏に預け、その結果を引き受けてもらうことであるから、

信心を得れば 怖くなくなってしまう。嫌だけれども、怖くはなくなる。これを安心という。

 要するに何が言いたいのかと言いますと、

死ぬのが怖いのは、自分の作る、

また 作った罪の結果が自分にかえってくることを(感じる)からであって、

それを 見るのが嫌だからと言ってそのままにしておけば、大変な目に遭います。

 だから、阿弥陀佛に、怖いから助けてよ、と言えば助かる。 

南無阿弥陀仏

横超とは、その意味は、

まず、この世界、因縁果の三世因果の世界に真の楽はない、なぜならば、誰かが

楽をすることにおいて、何かしら犠牲を伴わないことはない、

もっとはっきりといえば、楽をすれば苦を伴う。

なにかの形で必ず返ってくる。この世界から出て、仏になるには、途方もない修行が

必要であって、まず無理なのに、それよりも何一つ良いことをすることもできないのに

この世界から出して、この世界にとどまるしかない、自分自身を仏にしてやると

それが私を救うことになる。それで私が自ら求めないのを知っているから、

仏の方から、どうか助けさせてくださいとお願いしているのが、願作佛心です


この世界から出してやりたい、苦しい思いをさせたくないと、この世界から出して

仏にしたいとの思いが度衆生心、渡すという字の右側と同じ、苦から楽へ度す

私の罪を消すだけでなく、まぁなんとすごいものでしょうか。

この阿弥陀如来讃えずにおれますか

南無阿弥陀仏


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