2018年5月13日日曜日

五劫思惟の願を

念仏とは何を指すのか、一念帰命、信心を発起せよ。
生きて、死に、次の世にうまれ、またその世界で死にと
つまり、生まれ変わり、死に変わりを繰り返す。
常没と善導大師は説かれ、早い話が常に、三悪道に落ち
因縁が尽きるまでその場に留まり、なにかのきっかけで
人となり、また死んでゆく。仏の世界から見れば、この世界
は因縁とその縁果に縛られて、どうすることもできない苦の世界
1つ殺せば、1つ殺され、今殺す因縁は今後は殺される
果となる。その姿を等活地獄に描かれている。
その身に宿る因縁を宿業と呼ぶ。身に宿るものだから
業因の業とはもともと、行うという意味があります。
業と言えば仕事をイメージしますが仏教で業と言えば
行いを指します。因果論はとても難しいのですが
その論理よりは、身に宿るものが有ると説かれているもの
つまり、日々生きていくときの殺果や悪いおこない
それが来世において、自分に返ってくる。ここで脅す
地獄秘事であるものとかいうのですが因縁果は身に宿るもの
であると御釈迦様が説かれているのですから
それは当たりません。自分の行いが良ければ良い結果
が悪ければ悪い結果が身に宿るのです
そして、それを感じながら修行するのが聖道門です
修因感果と言う言葉があります。それを行なったのが
親鸞という人です。わたしは良い行いをして、経文に
書かれているように修めて行いをし、良い結果つまり
来世において、いい結果を生むように努力したのですが
何にもできません、心は正直にならず、愛欲は尽きず
心の残忍性も治らず、良い結果を感じることが
できません。すなわち、私の行くところは地獄なのだと
かの聖人はおっしゃっています。つまり仏教の身に宿るものを
どうにかして、という見地からみても普通の人のように
見えませんが、いまの真宗は念仏を唱えれば良い
そう言うのですが本来 念仏は仏の行、なのです
仏が念仏をして、それを頂く。仏の行をたのむ中には
宿善と説かれています。真宗の究極は宿業を宿善の力で
消し、宿善の力により仏にしてもらうとあるのです
凡夫の口称の念仏は弥陀の名において功徳がありますが
本来の目的は宿善。この宿善は仏の行。すなわち仏が
身に宿る。これを信心と
どうすれば、仏が身に宿ってくれるのか。これは親鸞
聖人がやったように、自分の行いを見て、そして
次の世に何が返ってくるかを考えてみたら、我が身に
宿る悪業はとんでもないものなのですから、とてつもない
恐怖心と嫌悪感でいっぱいになるはずです。
それをすべて代わりに、消して来世において仏にし
仏の国に生まれさせるという行を阿弥陀と呼ぶのです
その行をたのむことを、南無とつまり、南無阿弥陀仏とは
阿弥陀如来の行をたのむこと。そして念仏は仏の方から
賜る、身に宿る行として、消えず、なくならず、すてず。
欲生我国 摂取不捨 です。わたしはこの修因感果の道理
から来世の果を弥陀の行によって消してもらう。
早い話が、来世が怖くてしかたないなら、弥陀の行を
頼む 仏が代わりに念仏をしてくれるのです。
仏の行を貰う。これが究極です

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