2021年1月6日水曜日

急 救 いそげと

 ふと、聖徳太子のみ言葉を聞き。思いました。急げと助けるとは同じ音だと。

弥陀は急いで助けたいと常に願われて、私たちの傍に常に働きかけておられます。

急いて全ての衆生を佛にしたいと願っておられ続けられています。休むこともありません。

私たちは本来智慧があれば各々自ら弥陀の救済を受け入れるはずでしょう。三世の因果と

生死が理解できれば、来世の自らの姿を確認できれば、あるいは過去世の自らの姿をみることができたならば。弥陀を頼まない選択はあり得ません。 ですが往き易く人なし。昨今も

念仏の姿についての議論は幾度とも幾重にもあるのですが。信心について色々なことをおっしゃっているのです。人の粗を探そうと思えば際限なく、私ならばできるでしょう。しかし意味がありません。ブログで信心が聞けるとは思ってはいませんし。おこがましいとも思いますが。縁にはなるかもしれないと。そう思って書いています。弥陀は船です。この世界と弥陀の世界を渡す船なのです。弥陀の船に乗れば弥陀の国に行けるのです。弥陀の船に乗る。弥陀の国に行きたいと思えば行ける。たったそれだけの事なんです。そんなに難しく考えなくていいのです。 欲生我国 と 私の国に生まれてください。とお願いしている仏様に生まれたいと返事するだけのことです。 そのために何も必要がないんです。 この穢い身体を捨て。浄い身体を受けるとあります。 仏の身体を仏からもらって、仏の国に生まれれば。悪いことをしなくて済むんです。 そのための修行を代わりに阿弥陀如来がしてくれているのです。仏の国に生まれて仏になってくださいと願う仏がいます。 仏にしたいと。安楽の国にうまれ。仏になるのです。いまの私のこころがそのままに仏の行を加えて仏にしてくれるのです。

穢身をすて浄身を受く 南無阿弥陀仏 みだの船に乗れ皆人とか聖徳太子のみ言葉です。

阿弥陀仏とは私のことを仏にする行を指す言葉です 南無とはその行に帰命することです。つまり仏になりたい。仏の国に仏の力によって生まれさせてもらいたいと言葉にするのが一念です。 そのあとは仏に仏の念仏を頂いて心の中に常に私に代わって念仏する仏を感じるのです。その姿に感謝しない日はありません。仏はいますし。救済は完璧です。もし仏の行がなかったならば、私は自らの因縁により殺し合いを繰り返すばかりか、仏になれる行を積むことも叶いません。いくら年月をかさねても叶いません。仏の力を誰も信じないのですが。仏は見事にその力を発揮します。仏の国があり この世界と違う国です そこには仏がいます。阿弥陀如来に仏にしてもらった無数の仏がいるのです。この世界から仏の世界に

いずれすべての衆生が仏となって生まれる日がいつかくることでしょう。しかし急げ皆人です。仏になるのが早いほうがいいに決まっているじゃありませんか。生きている間に仏の国に生まれたいと返事するだけで救ってくれるのです。信じなくてもです。やればわかります

2020年8月21日金曜日

厭離穢土のこと

 厭離とは厭い離れること。穢土とは穢い土のことです。この話を自分のことを中心に考えてみます。 穢土はきたない。何故きたないのか。それは死体だからです。基本的に死体が中心の世界を穢土というのです。浄土には死体がありません。仏になれば死ぬということがないからです。成仏すれば死なないので穢土になりようがありません。私たちの世界を振り返ってみれば、まず土は死体の塊であるといえるでありましょう。どれだけ科学が発達しようともこれだけは変わらないことでしょう。死体が基本です。死体の栄養を食べているのです。石油も死体であります。死体まみれの世界、自分の死体を過去世から今までと考えてみたら、どれほどの死体を積み上げてきたのか想像もつきません。他の者の死体と自分の死体。殺した者の血肉を食べなくとも、死体から取った栄養を食べているのですから。自己も死体になるのです。それも必ず。自分に縁がある衆生を殺して食べ、自分が来世で殺されて食べられる。自己の身体も無数の生命の死と生が繰り返されることにより、生きていくようになっています。自己が死ねばまた新たな身体になり前世の行いの報いを受ける。因果応報です。何が言いたいのかといいますと、自分の信心においての決め手の一つなったのが正にこれです。死体の世界と殺し殺される世界。究極はこれしかない。殺すか殺されるか。だれかの栄養になるか栄養にするかしかない。食うか食われるか。やるかやられるかしかない。世界をよくみると佛のほうから見ると穢い世界を好き好んで堪らないのが我々です。がしかし仏の智慧により穢土と知らされる。死体にするか自分が死体になるかしかないのですから。悲しい運命を永遠に繰り返すしかない。繰り返してきたのですから。はっきりと言葉が繋がります。生死を厭い離れるのが厭離穢土です

2019年12月25日水曜日

修因感果

自身の悪機たることをしらざるになる。おほよそ凡夫引接無縁の慈悲をもつて修因感果したまへる別願所成の報仏報土へ五乗ひとしく入ることは、諸仏いまだおこさざる超世不思議の願なれば、たとひ読誦大乗解第一義の善機たりといふとも、おのれが生得の善ばかりをもつてその土に往生することかなふべからず 悪業をばおそれながらすなはちおこし、善根をばあらませどもうることあたはざる凡夫なり 口伝称から 法然上人から親鸞上人への中に 自分の悪業について書いてあります。ここを使って批判するわけではないです悪しからず、何が言いたいのかといいますと。悪業を恐れながらすなわち起こし、なぜ恐れるのかすなわち分かるからです来世の報いを、あらませというのは古語で期待してという意味です、期待して善根を植えようとするけれども得ることができないという意味です。自分が悪機であることを知らず、己が悪業をおそれながら起こし、己の善業は期待しても得られず。私の言いたいことが口伝称にそのまま書いてありますが、現代語に訳すと少しわかりやすいですね。善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるここも口伝鈔ですね。なんとも有難い。ここが私は信心の要の一つであると思っています。悪業を感じる、自身は悪機である、殺したものに謝意を示すといえども旨い不味いという己の機は鬼そのもの、その機が作る悪業無始以来つくる悪業を恐ろしいと感じないわけがないのであります。その感じる悪業を仏が除くのでありますが、どうすればいいのかとよくあるのですが、悪業を感じるから除いてほしいと実はなかなか思わないのです。私のことよく知っている仏はここに本質のラストのクライマックスを用意しているのです。それが三世因果を超越し、仏の姿にし仏の国に生まれさせて救済すると仏のほうからお願いしますと願うこれを南無阿弥陀仏というのです。すなわち悪業を除くだけではなく、二度と悪果を受けないように何もしないできない私に仏になる果を与え、仏になってくださいと願う仏が阿弥陀如来なのです。私の国に生まれたいと願ってください。そう願ってくだされば、必ず救います。南無阿弥陀仏 さらに言いますと悪業を仏はどうやって消すかそれは私が殺果をもてば己が殺され、すべて代わりに受けてしまわれるのです。そしていつも私の中で仏がいることを教えてくれます。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて となり 生死を出離し浄土に往生となります。生死とは因果の世界、浄土は非因果の世界です。死ぬことがないです。仏のままです。

回向と不回向と以心伝心

真実信心とは明らかに体験であり、心をもって心を伝えることが必要であり、
信心獲得ということが昨今なくなってしまったと感じるのであります。
確かに分からないというのは無理がない。分かる道理がありません。
なぜならば仏による救済だから、仏の知恵なのです。だけれども、心が欠けていては
無理なのです。地獄に落ちるか否かについては明らかではありません。
しかしながら、往生ということについては信心が明らかに条件である。
菩提心ともいう。発菩提心ともいう。凡夫から起こす菩提心ではなく、仏からの回向
による信心である、その面から称名と結び付け、称名を行とするといっていますが
、それはこじつけという批判があります。称名は明らかに正しいですが、往生の真因は
信心すなわち菩提心。菩提心を得るために聖道門の方が修行を行い菩薩になられ仏となると。浄土門は称名だと。じつは浄土門は念仏です。念とは心なので。称ではない。ナンマンダブと言うことではなく、念ずることです。この念において回向と不回向とあるのです。仏が凡夫の中に入り回向する状態を信心を得た状態というのです。そしてその念仏の主体が仏なのです。仏が自動的に念仏を凡夫の中で行う状態を信心というのです。太陽に照らされた月は己が力によっては何もしない。まったく何もしない。
大事なのはやはり信心を得ることであるのです。しかしながら、仏の知恵なので分からない。得た者は非常に少なくいないに等しい。カルトと言われても仕方がない。そしてさらに難しいのは心をもって心を伝えなくては伝わらないところが難しい。機会的にはかなり難しい。宗教として考えてみれば、門即信という側面はある。真宗のお坊さんが阿弥陀如来の功徳によって救われると説くことをあながち否定することはないけれど、信心を否定するのは明らかに誹謗正法であります、しかし仏は許すに決まっている。佛に罰はない。
あるのなら救われるわけがない。ここに書いて何になるのかとも思います正直。
しかしながら真実信心があり、以心伝心があり、仏の心があり、伝え伝わっていることがあります。そのこころは機を知らしめて、たのむ機にほとけの回向があり、菩提心を得ることがあり、仏の念仏を得るのですから、称名を正業とするというような話とは違います。念仏ですから称仏ではないのです。明らかに違います。どうすれば得られるか一人で得る方法があるのだろうかと常に思い悩んではいるのですが、修因感果の道理により、
己がしたことの結果を己が感じる、それは来世の報いを今感じる。すなわち死後の恐怖とは来世の己が報いであると。死後恐怖を感じず怖くないとなるにはその果が楽の果でなくてはなりません。これを書くなれば楽因が楽果を感じ、苦因は苦果を感じる。この理により後生に焦点をあて、苦果であるか、楽果であるかなのですから自ずから明らかになります。

2018年8月15日水曜日

帰命無量寿如来 南無不可思議光

帰命無量寿如来 南無不可思議光 無量寿如来に帰命せよ 不可思議の光を
たのみ。 私が信心の話をしていただいたこと。その記憶をたどりほかの人が
信心を得ることがもしもできたならと思い 書き綴っています。しかしながら
経典は口授を基本としているかのようにも思え。どうかなとも思いますが。
厭離穢土 の穢土について考えてみるとですね、まず穢土とは汚い土という意味です
これは死体が土に還ることからも 土は死体の山そのものです。浄土には死体はない
死ぬものがいない。殺したり殺されたりはしないわけです。自分がこの法を聞いて
まず分かったのは自分が残虐なことをして顧みないということ。自分がしている
ことをつぶさに見て取れば、悪いことしかしていない。なぜならば自性が悪であるから
悪性により因果は悪因となり悪果を得る。そう鑑みてみれば、悪因しか作ることが
出来ない世界で悪因しかつくらないから、どうしようもなくて、どうすることもできない。世の中でどんな評価を受けたとしても一度生を受ければ必ず殺す縁を結びます。
なにか生き物を殺さずに生は送ることさえできません。因果とは輪廻と結びつくのであって。因果深信とはすなわち、この世界が終わったらですね、来生、再来生、再再来生と
延々と因果の道理によって、殺されたり殺したりを筆頭にいろんな世界にうまれかわり
たちかわりして、いろんな目に合うということです。この世界にいる限り、因果と輪廻により、苦しみから逃れることはありません。苦の種をつくるか、苦の果を受けるかしか
ないのが当たり前の世界にいて、快楽を求め続けるのが私たちなのです。真実の快楽は
一つとしてないのにもかかわらず。楽しそうに苦の種をこしらえている。死んだら天国に行っていると思い込んでいる。死ねば仏になると。念佛もせず、信心も取らずに。
もともとは聖道門の教えは菩提心という悟りを得るのが目的でした、そして修行をして
菩提心を得、仏になるという道を目指すのです。そのために修因感果という道理によって
修行をして因をおさめ善い行いをして善い結果を感じるまで修行しなさいとなるのです。
それを愚直にやったのがかの親鸞上人となるのですが、結局はできません、お先真っ暗ですと法然上人のところへ行きます。そうしたら、そのことを教えてくれたのが仏様であると、なんにもできないことに気が付いたのは自分の力ではない、それも他力であると。
この修因感果こそ真宗の神髄であり、すなわち感じることができる、自分の行いの結果は
どうなるかわからなくとも、感じることができる。恐ろしいと感じるということはすなわち悪業をもっているということに他ならないのです。そして無常の風に吹かれ、その悪業もろとも落ちていく可能性があるのです。おそろしいと感じるのが後生の一大事なのです。つまりはなぜ恐ろしいと感じるのか、それは自分の行いが悪いからです。良いことをしていれば楽しいと感じるのです。この仏説から後生の一大事につながり、悪業を消して
もらうとかそういうことになるのです。だからまず頼めとたのめがやがて信心を向こうから授けてくれると、念仏して恐ろしい来世の悪業を消してくださいと念仏してくださればよいのです。たのむ機にやがて信心を与えるとあるのです。とても簡単なのです。
だれでも恐ろしいはずなんです。恐ろしいのは悪業を持っているからです。だからタノムのです。すればすぐに答えがでるのです。私は強情でしたので、なかなかたのめませんで
結局は解脱という理からそのきっかけになったのです。因果の世界から出してもらえる。
仏にして出してもらえる、その餌についたんです。なんでもいいんです。仏にして仏の国に生まれさせてくれるんですから。悪いことしかしない私を。恐ろしいことをして知らんふりすることしかできない私をです。代わりにどれほどの苦しみを積んだのか想像もつきません。私一人のためにどれほどの苦しみを背負ったのかわかりません。ただ念仏するとそう思います。南無阿弥陀仏 弥勒菩薩はこの星で仏なって生まれます。弥勒の名を聞けば地獄には落ちません。しかし仏をたのんでください。どうか

2018年5月13日日曜日

五劫思惟の願を

念仏とは何を指すのか、一念帰命、信心を発起せよ。
生きて、死に、次の世にうまれ、またその世界で死にと
つまり、生まれ変わり、死に変わりを繰り返す。
常没と善導大師は説かれ、早い話が常に、三悪道に落ち
因縁が尽きるまでその場に留まり、なにかのきっかけで
人となり、また死んでゆく。仏の世界から見れば、この世界
は因縁とその縁果に縛られて、どうすることもできない苦の世界
1つ殺せば、1つ殺され、今殺す因縁は今後は殺される
果となる。その姿を等活地獄に描かれている。
その身に宿る因縁を宿業と呼ぶ。身に宿るものだから
業因の業とはもともと、行うという意味があります。
業と言えば仕事をイメージしますが仏教で業と言えば
行いを指します。因果論はとても難しいのですが
その論理よりは、身に宿るものが有ると説かれているもの
つまり、日々生きていくときの殺果や悪いおこない
それが来世において、自分に返ってくる。ここで脅す
地獄秘事であるものとかいうのですが因縁果は身に宿るもの
であると御釈迦様が説かれているのですから
それは当たりません。自分の行いが良ければ良い結果
が悪ければ悪い結果が身に宿るのです
そして、それを感じながら修行するのが聖道門です
修因感果と言う言葉があります。それを行なったのが
親鸞という人です。わたしは良い行いをして、経文に
書かれているように修めて行いをし、良い結果つまり
来世において、いい結果を生むように努力したのですが
何にもできません、心は正直にならず、愛欲は尽きず
心の残忍性も治らず、良い結果を感じることが
できません。すなわち、私の行くところは地獄なのだと
かの聖人はおっしゃっています。つまり仏教の身に宿るものを
どうにかして、という見地からみても普通の人のように
見えませんが、いまの真宗は念仏を唱えれば良い
そう言うのですが本来 念仏は仏の行、なのです
仏が念仏をして、それを頂く。仏の行をたのむ中には
宿善と説かれています。真宗の究極は宿業を宿善の力で
消し、宿善の力により仏にしてもらうとあるのです
凡夫の口称の念仏は弥陀の名において功徳がありますが
本来の目的は宿善。この宿善は仏の行。すなわち仏が
身に宿る。これを信心と
どうすれば、仏が身に宿ってくれるのか。これは親鸞
聖人がやったように、自分の行いを見て、そして
次の世に何が返ってくるかを考えてみたら、我が身に
宿る悪業はとんでもないものなのですから、とてつもない
恐怖心と嫌悪感でいっぱいになるはずです。
それをすべて代わりに、消して来世において仏にし
仏の国に生まれさせるという行を阿弥陀と呼ぶのです
その行をたのむことを、南無とつまり、南無阿弥陀仏とは
阿弥陀如来の行をたのむこと。そして念仏は仏の方から
賜る、身に宿る行として、消えず、なくならず、すてず。
欲生我国 摂取不捨 です。わたしはこの修因感果の道理
から来世の果を弥陀の行によって消してもらう。
早い話が、来世が怖くてしかたないなら、弥陀の行を
頼む 仏が代わりに念仏をしてくれるのです。
仏の行を貰う。これが究極です

2017年10月3日火曜日

人が仏になろうと願い阿弥陀佛を念ずるならば

人が仏になろうと願い 阿弥陀仏を念ずることを発心というのでしょう。菩提心を発心させてもらう。仏になろうと願いというところがとても大事です。仏様はなかなか面白いことを言っておられます。功徳には限界がない。罪業には限界がある。過去世、来世
現世とありますが、来世がつらいのは誰しも嫌なので、浄土を願うこころがあると。輪廻流転して出られないのは自性が悪だからです。うまい、まずい、というこの自性殺因殺果なのに、因果をないものと思い切って。うまいなあと殺していう。この自性の持ち主のいく果てが地獄なのであって、その地獄で苦しみを清算したら、また人間やその他もろもろの衆生となって生まれます。その屍を積み上げたら世界一高い山をもっても全然足りないと。衆生はほぼ悪性をもっています。そしてお互いの因縁によって苦しみを与えあうのでしょう。厭うべきはこの娑婆世界。望むべきは極楽浄土。仏になるのに阿弥陀如来の力をタノムことを念仏。南無阿弥陀仏。来世はつらいはずだったのに。罪罪業をすべて消滅さえていただいて。この娑婆世界からおさらばして、仏になって生まれられるとは何とありがたいことかと。阿弥陀如来の力は果てしないですが、罪を滅し、仏と同体の姿に往生させる修行をしたその行を阿弥陀という。阿弥陀とは行なのです。ほとけの忍終不悔の賜物。阿弥陀の行をたのむ、たのむことを南無という。南無阿弥陀仏とは仏の行をたのむということです。それは人が仏になろうと願い、阿弥陀佛を念ずることです。南無阿弥陀仏。願わくばもろもろの衆生とともに往生せんことを。一人でもこの仏の願いにかなうことを。そこまでいかなくても縁を結ぶことを祈ります。南無阿弥陀仏