機根つたなく とは つたないとはおぼつかないとか、能力が足りないという意味なのです
これをわかりやすくいいますと、数の自然というのが因果の通りにつながってゆきます
また自性が善いか、悪いかという部分を整理してわかってもらう必要があると私は考えます
己の能力と己の自性、この二つの性質、またこの話の上に今の生きているこの世界の性質
まず因縁ということ、自性、そして、自分の能力、そして結果どうなるかという流れで
きちんと一足とびにならないで、確認する必要があると思っています
これらを確認してゆけば、自ずから結論が導かれてゆくのです
しかし、信心の相続という話になりますと、そこはある人に相続してもらう必要があります
この確認作業とでもいいますか、ここは定義ではなくして、自分のことを確認するという
そういう当然のことをして仏の話と一致するか確認してゆくだけなのですね
因果応報ときいて、おそろしいと感じなくなるまで、修因感果によって修行するか
また、自力で念仏をして、他力を体得するまでし続けるかなどありますが
なかなか辿り付ける道ではありません。 それよりは自己の姿を見て、自己の行いを見て
また、自己の生きている世界をみてどうするか決めるというのが信心に近くなる道だと
聞いたことがあります。
まず、生き物を殺す、感情のある魂を持つ衆生を殺してもなんとも思わない心をもっている自分が
います。言われたら、自然と眉間にしわを寄せ、恐ろしい形相になって相手をにらみつけている自分が
そこにいます、泣いて命乞いをするそうです、家畜は殺されるときに車に乗るのを拒みます
これは本能がそうさせるのでしょう。これはひとつの因縁だけではなくて、私の自性を現している
例えでした、そういう鬼のような自性を持っています、そして因果論という真理から、よい種と悪い種
どちらをつくるだろうか、それはこの恐ろしい自性を持つ自分がつくる本心がどういう性格を持っている
か考えることにしますと、批判され怒り心頭な自分の本性を見るにつけ悪い結果をつくるのが当たりま
えだという結論に至ります。 殺される相手が悪いという心さえ持っているのですから、相手が立場がい
れ代わり私を殺す側にまわるときが死ねば来るそうですが、それだけではありません、自分の心の性格
善い種をつくるのか、悪い種をつくるのかはその性質にかかっているのです
魂という文字は仏語でしょう、鬼と云うと書いて魂、人の為とかいて偽りです、これが私の本性です
そういいながら不快な心持にさえなるのです。
そしてその鬼と云うものがつくる因を消すにはその鬼がしたことをして返さなくては消えません
ここで能力というところがでてきます、自分の身を削って、おなかのすいている鬼に供養できるでしょう
か、私はできる人はいないと思いますが、そうして初めて、自分のしたことを償って罪がひとつ消えると
なるのでしょう。つまり、悪因をひとつ消すということさえできない者が、悪因しかつくる性質をもっていな
い魂をもっているということが、後生の一大事をうむという結論に導かれていくことになります
ここで弥陀の救済がありますということになり、この悪因を消す力を弥陀は持っています、そしてそういう性質の持ち主だからこそ、救済しなくてはかわいそうだということで修行され、念仏ができたのです
どうすれば救われるか、それは非常に簡単なのです、先の後生の一大事を心にかけてとは
死んだらなにかわからないが非常に死ぬのがいやで怖いとなるのは地獄があるからではないかという
不安があるから、それは自分が地獄という自分でつくった悪い種が自分にあるからということになります
それを心にかけて、その種を自分で処理できないから、阿弥陀様にお願いします、この苦しい種を消しとってくださいとお任せすれば、阿弥陀様はよろこんでその光の中に収め取る、決して離しはしません
2011年2月22日火曜日
久しぶりに更新してみたく思いましたので
難しい、念仏の話をここで書きつづってもまた困難なことにわからないだろうと私は思っています。
なぜなら、自分もそうだったからです。信心をという気持ちはありますが、
言葉だけ先行しても難しいのだろうなと常々感じているところです。
機根つたなくして、自力で往生を遂げられない凡夫は弥陀にたのんで往生を成し遂げるというのが
基本的な考えです、また地獄へ落ちるから、救われないといけないという定義が後生の一大事を心にかけて
一心一向に弥陀に助けたまえと たのみ申せば、往生は一定なりとあります
このたのみという古語をどう解釈するかというところがお任せしますという意味なのでありますが
ゆえに 一心一向に 助けたまえと お任せすれば という意味になるわけです
このお任せというのは先の機根つたなくして、自力で往生を成し遂げられない凡夫は弥陀にお任せして
往生を成し遂げるという意味なると考えていただければ筋が通っていく話になるのです
なぜなら、自分もそうだったからです。信心をという気持ちはありますが、
言葉だけ先行しても難しいのだろうなと常々感じているところです。
機根つたなくして、自力で往生を遂げられない凡夫は弥陀にたのんで往生を成し遂げるというのが
基本的な考えです、また地獄へ落ちるから、救われないといけないという定義が後生の一大事を心にかけて
一心一向に弥陀に助けたまえと たのみ申せば、往生は一定なりとあります
このたのみという古語をどう解釈するかというところがお任せしますという意味なのでありますが
ゆえに 一心一向に 助けたまえと お任せすれば という意味になるわけです
このお任せというのは先の機根つたなくして、自力で往生を成し遂げられない凡夫は弥陀にお任せして
往生を成し遂げるという意味なると考えていただければ筋が通っていく話になるのです
2010年10月7日木曜日
厭離穢土 欣求浄土
私はこの言葉が一番好きです。どの言葉よりも好きなのです
分かりやすい、そして本当の気持ちはここなのです。
穢土とは今生きている世界を含めて、過去世、来世も含め全ての
現世界を指し示します。
欣求浄土 これは仏の国を願い求めよ
厭離とは 厭い離れよ
即ち三世因果の道理に束縛される世界、汚い世界から
厭だと思え、そして離れよ
仏の国をねがい求めよ
そのために念仏があるのです 南無阿弥陀仏
業繋とあります これは業に繋がれている
業とは三世因果のことを意味しています
繋とはつなぐと読みます
三世因果の世界に束縛され、汚いからだと魂を持ち
苦界から苦界へ今の人の世界も仏説では苦だと
とかれてはいませんか
私は苦界から出すという念仏の教えは
今は悪因をつくる世界でまた苦を受け
死ねばまたその悪因により苦を受け
そしてその果によりまた悪因をつくる
無限に循環して終わることがなく
より苦しいかそれよりも苦しくないかを
繰り返す
それが厭なのです、そして私がつくった悪因は
全て滅ぼしてくれるのですから
その因を消す力のある阿弥陀如来に任せる
この世界にいるかぎりは誰しもが因果の束縛から
逃れることはできないのです
自性を変えることなど出来ません
悪因をもっているから死後を怖がらなくては
なりません
苦因は苦果を感じ 楽因は楽果を感ず
この世界に生きる生き物すべてが因果に束縛されます
縁ある衆生で親でないものはないと
ある仏説には説かれているほどなのです
私達は全て縁がある生き物の命を奪っていますが
実は親兄弟であったとなるのかも知れません
罪を犯したらその報いを受ける
それは生きている時の罪と罰の話だけではなく
因果とはつながっているゆえに避けられないものです
悪果を受ける因は悪果があるゆえに生れるのです
その因果に束縛され悪因をつくることと
悪の本性を持つ本能的な魂が生み出してゆく
終わりのない因
此の世界は汚く、体も汚れていきます
後生の一大事とは自分の過去世から作りに作った
悪業であることははっきりしていることです
そして因果の世界に生きているわけですから
逃れる手段はないわけです
その逃げられないわたしを哀れんで修行をし
苦因を消すためにいくら苦しんでも後悔はしない
耐え忍ぶと
誓いがあります
そして仏にしてみせる
そのためにはいくら苦しんでもかまわない
その御心が南無阿弥陀仏である
願作仏心 度衆生心 これは大菩提心なり
その御心に任せるだけであります
南無阿弥陀仏
分かりやすい、そして本当の気持ちはここなのです。
穢土とは今生きている世界を含めて、過去世、来世も含め全ての
現世界を指し示します。
欣求浄土 これは仏の国を願い求めよ
厭離とは 厭い離れよ
即ち三世因果の道理に束縛される世界、汚い世界から
厭だと思え、そして離れよ
仏の国をねがい求めよ
そのために念仏があるのです 南無阿弥陀仏
業繋とあります これは業に繋がれている
業とは三世因果のことを意味しています
繋とはつなぐと読みます
三世因果の世界に束縛され、汚いからだと魂を持ち
苦界から苦界へ今の人の世界も仏説では苦だと
とかれてはいませんか
私は苦界から出すという念仏の教えは
今は悪因をつくる世界でまた苦を受け
死ねばまたその悪因により苦を受け
そしてその果によりまた悪因をつくる
無限に循環して終わることがなく
より苦しいかそれよりも苦しくないかを
繰り返す
それが厭なのです、そして私がつくった悪因は
全て滅ぼしてくれるのですから
その因を消す力のある阿弥陀如来に任せる
この世界にいるかぎりは誰しもが因果の束縛から
逃れることはできないのです
自性を変えることなど出来ません
悪因をもっているから死後を怖がらなくては
なりません
苦因は苦果を感じ 楽因は楽果を感ず
この世界に生きる生き物すべてが因果に束縛されます
縁ある衆生で親でないものはないと
ある仏説には説かれているほどなのです
私達は全て縁がある生き物の命を奪っていますが
実は親兄弟であったとなるのかも知れません
罪を犯したらその報いを受ける
それは生きている時の罪と罰の話だけではなく
因果とはつながっているゆえに避けられないものです
悪果を受ける因は悪果があるゆえに生れるのです
その因果に束縛され悪因をつくることと
悪の本性を持つ本能的な魂が生み出してゆく
終わりのない因
此の世界は汚く、体も汚れていきます
後生の一大事とは自分の過去世から作りに作った
悪業であることははっきりしていることです
そして因果の世界に生きているわけですから
逃れる手段はないわけです
その逃げられないわたしを哀れんで修行をし
苦因を消すためにいくら苦しんでも後悔はしない
耐え忍ぶと
誓いがあります
そして仏にしてみせる
そのためにはいくら苦しんでもかまわない
その御心が南無阿弥陀仏である
願作仏心 度衆生心 これは大菩提心なり
その御心に任せるだけであります
南無阿弥陀仏
2010年10月4日月曜日
阿弥陀如来の行について2
ここで話がもどりますが、己のことが分かるということですが
ひとつの文字がそれを教えてくれます。
悟るです、此の文字は吾という文字に心がついています。
己の心が分かるということは悟りなのです
これを一人で成し遂げたのは釈迦如来ただ一人です。
つまるところ仏教の出発点は悟りを開き成仏するですから
己の心を知り、修因感果の理といいますか感覚により
楽因を積み、悪因を消す修行を行い、自性を変え
仏の世界に生れる道を指し示します
これを仏道修行といい、厳しく欲望と愛欲を節制し
その目的は自性を変えることにあります
それが出来たならば成仏の因があと何千憶劫年かかろうとも
ひとつの行でさえ積み重ねていって己の自性を変え
成仏するという事になります
しかし、私達は残念ながら、自性をしる事も出来ませんし
行を行う前提にも立てないのです
悪性さらにやめがたし、一行も及びがたき身なれれば
地獄は一定住みかぞかし
これは親鸞聖人の言葉ですがかの高僧は己の自性を知らされ
そして己の能力を感じ、その結果を導かれました
此の一文の中には確かに仏道修行をしようとする人の前提が
あります。まず自性を知る、そして行をする。
しかし自性を変えることはできない、日々募る妄念
悪感情、悪魂を変えられない、そしてそれを変える行をすることも
できないとなれば、自分のした行いと自分の魂の導く因縁によって
行く先は地獄が一番似合っていると親鸞聖人は言われました
ここで自性を知ることは即ち自らの運命をしることになることが
はっきりと述べられているところが良いと私は思います
唯知作悪 悪魂は悪を作ることは教えられなくとも知っています
教えて貰わずともおいしいものを選びます
教えてもらわなくても自らの快楽を選びますね
自ら苦痛を肩代わりして誰かを救済し、救われれば安堵するというよう
な高級な人は今は見当たりません。自助努力を推進しますが
自らは肩代わりできる人は存在しません。
できるのならば、飢えた人の代わりにその場所へ行き
自分が代わりに飢えて、この食料豊かな場所につれてくればよいのです
それでも善とはなりません殺生をすればその報いを受けるのですからね
しかしこれはひとつのたとえです。自らほかの苦しみを肩代わりすることは
その行いによる結果を結ぶことでしょう
そういったことを悪感情なしで常にできるような心を持たなくてはならない
そういう姿になれるのでしょうか
ここで最後に結びます、阿弥陀如来は私の因果を引き受けるために
代わりに苦しみを肩代わりしてそして私の苦因を全て消してくれる
それゆえ苦因が消えます その行を信じる 任せるだけなのです
南無阿弥陀仏
ひとつの文字がそれを教えてくれます。
悟るです、此の文字は吾という文字に心がついています。
己の心が分かるということは悟りなのです
これを一人で成し遂げたのは釈迦如来ただ一人です。
つまるところ仏教の出発点は悟りを開き成仏するですから
己の心を知り、修因感果の理といいますか感覚により
楽因を積み、悪因を消す修行を行い、自性を変え
仏の世界に生れる道を指し示します
これを仏道修行といい、厳しく欲望と愛欲を節制し
その目的は自性を変えることにあります
それが出来たならば成仏の因があと何千憶劫年かかろうとも
ひとつの行でさえ積み重ねていって己の自性を変え
成仏するという事になります
しかし、私達は残念ながら、自性をしる事も出来ませんし
行を行う前提にも立てないのです
悪性さらにやめがたし、一行も及びがたき身なれれば
地獄は一定住みかぞかし
これは親鸞聖人の言葉ですがかの高僧は己の自性を知らされ
そして己の能力を感じ、その結果を導かれました
此の一文の中には確かに仏道修行をしようとする人の前提が
あります。まず自性を知る、そして行をする。
しかし自性を変えることはできない、日々募る妄念
悪感情、悪魂を変えられない、そしてそれを変える行をすることも
できないとなれば、自分のした行いと自分の魂の導く因縁によって
行く先は地獄が一番似合っていると親鸞聖人は言われました
ここで自性を知ることは即ち自らの運命をしることになることが
はっきりと述べられているところが良いと私は思います
唯知作悪 悪魂は悪を作ることは教えられなくとも知っています
教えて貰わずともおいしいものを選びます
教えてもらわなくても自らの快楽を選びますね
自ら苦痛を肩代わりして誰かを救済し、救われれば安堵するというよう
な高級な人は今は見当たりません。自助努力を推進しますが
自らは肩代わりできる人は存在しません。
できるのならば、飢えた人の代わりにその場所へ行き
自分が代わりに飢えて、この食料豊かな場所につれてくればよいのです
それでも善とはなりません殺生をすればその報いを受けるのですからね
しかしこれはひとつのたとえです。自らほかの苦しみを肩代わりすることは
その行いによる結果を結ぶことでしょう
そういったことを悪感情なしで常にできるような心を持たなくてはならない
そういう姿になれるのでしょうか
ここで最後に結びます、阿弥陀如来は私の因果を引き受けるために
代わりに苦しみを肩代わりしてそして私の苦因を全て消してくれる
それゆえ苦因が消えます その行を信じる 任せるだけなのです
南無阿弥陀仏
阿弥陀如来の行について
阿弥陀如来の行ということについて考えてみます。
南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏をたのめという意味ですから
全てしてもらうことを指します。
そして私が何もしなくても、念仏の状態が続くことを
憶念の信と表現されています。 憶という文字は心と意と
記憶の憶ですね、念とは念仏のことですから、念仏を心に憶える
ことが常にしてですから、途絶えることがない状態です
これらを自らの力で行うことは出来ません
他力に委ねると口ではいいますが、本当にしてもらっている状態
ならば、その姿になります
憶念の信常にして仏恩報謝の想いあり 南無阿弥陀仏
この心はいつも念仏の状態にしてもらっていることが分かる
そしてそのことに感謝する気持ちが起こることを指します
よく機法一体の二種深信とありますが、この機の深信と法の深信は
同じであるといわれます。私達一切衆生の性質をごらんになった
阿弥陀如来が全ての衆生を救済すると誓われたのが
南無阿弥陀仏の誓願なのです。
全ての衆生ですから、命がある者を全て救うという事です
仏典に鳥のさえずる声を聞いて、その声は親の声かもしらんと
感じることがあるとあります。縁を結んでいるのだから
多生の縁としてつながりがあるという事です
こういったことからも仏典では全ての命は全て平等なのです
人があえて、動物、植物、虫ほか等と区別しているに過ぎません
六道の中には畜生道とあります。生き物としては違う世界で産まれた
だけで同じ魂をもっていると説かれています。
衆生が地獄に堕ちているところから産まれ、そして地獄に還るという
繰り返しであるという言い方を否定する人もいますが
その根拠を知りたいものです。
明確な根拠とは何か、私が聞きましたのは善因善果、悪因悪果
楽因楽果、苦因苦果 三世因果の道理、修因感果 自性 魂
如来の行 解脱 輪廻 厭離穢土 欣求浄土
私が助けてほしいと想ったその時にたしかに弥陀が救ってくれた
それを感じました。今生きている世界は苦因をつくる世界
そして死後は苦因を受ける世界であると。
輪廻を繰り返し、いままでどれくらいの屍を積み上げてきたことか
その高さは計り知れないものになるそうです
私はこの世界三世全てが苦因苦果の因果の世界である限り
自ら修行して自らを済度することは不可能であると想います
阿弥陀如来は私の過去世の苦因を全て消し去り、私を苦因と苦果
の世界から仏の世界へと導き、仏にしてくれるのです。
自らが悪の塊である魂の持ち主である限り、その作るタネは
悪い実しか結びません。しかしながらこの弥陀の話の要点は
因果深信とあります。これは仏の例えでありまして
種を植えれば実がなるだろう。とあります、これはその環境の中で
あれば、自然と実が生る事をあらわしています
私が何か想うなり想わなくとも私の魂の行った因は私のわからない
因果の環境の中で自然と来世での果を招きます。
そしてそのことを因となり果となりと
なにかをしても因があり、なにもしなくても因があります
時間とともにしてもしなくても因縁を結びます
悪性ゆえにいつも因は悪果を結ぶものを作るのです
悪果はまたそれを精算したあとは悪因をつくる因になります
それが今現在の姿であるというわけです
私たちが悪因をつくるのは悪果がある証であるとはよく言われますが
その悪果がいずれどうなるかは今の行動につながります
悪果は悪因から生まれその因を消すのではありませんで
次に悪因を作る種となるのです。
私達の罪はそうやって作られてゆきます。悪性がやめられれば
その悪因を作る因を消し、善因を積めばよいのですが
自動的に生来もっている行動が悪なのです
食事、喜怒哀楽、ほか諸々です。
偽善だけれどすればよいとはよく言いますが
私は偽善だと認識してそれでも人助けを行うことはいずれ
己に返ってくるので、結局自己のためとなります
己の心を偽ってよいことをするのではなくて
自らの為になるという気持ちで行うのは良いと思います
しかし、それらの善でありましても厳然たる因果の道理から
見ますと一向に善とは生りえません
悪感情をもってはいけません。偽ってはいけません
この二つはどうしても解決できません
ボランティアの人も感謝されればやりがいがあるとおもいます
しかし不足を言われれば腹が立つでしょう。
これだけで悪因と生ってしまいます
自らの魂といいますか自性を変えなければその因は変わりません
それで初めて修因感果となります
つまり善をおこなう為には自らの自性を変えなくてはならない
己の自性さえ分からない者がどうやってそれを変えられるのか
ここで非常に難しい能力的な問題が出てきます
南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏をたのめという意味ですから
全てしてもらうことを指します。
そして私が何もしなくても、念仏の状態が続くことを
憶念の信と表現されています。 憶という文字は心と意と
記憶の憶ですね、念とは念仏のことですから、念仏を心に憶える
ことが常にしてですから、途絶えることがない状態です
これらを自らの力で行うことは出来ません
他力に委ねると口ではいいますが、本当にしてもらっている状態
ならば、その姿になります
憶念の信常にして仏恩報謝の想いあり 南無阿弥陀仏
この心はいつも念仏の状態にしてもらっていることが分かる
そしてそのことに感謝する気持ちが起こることを指します
よく機法一体の二種深信とありますが、この機の深信と法の深信は
同じであるといわれます。私達一切衆生の性質をごらんになった
阿弥陀如来が全ての衆生を救済すると誓われたのが
南無阿弥陀仏の誓願なのです。
全ての衆生ですから、命がある者を全て救うという事です
仏典に鳥のさえずる声を聞いて、その声は親の声かもしらんと
感じることがあるとあります。縁を結んでいるのだから
多生の縁としてつながりがあるという事です
こういったことからも仏典では全ての命は全て平等なのです
人があえて、動物、植物、虫ほか等と区別しているに過ぎません
六道の中には畜生道とあります。生き物としては違う世界で産まれた
だけで同じ魂をもっていると説かれています。
衆生が地獄に堕ちているところから産まれ、そして地獄に還るという
繰り返しであるという言い方を否定する人もいますが
その根拠を知りたいものです。
明確な根拠とは何か、私が聞きましたのは善因善果、悪因悪果
楽因楽果、苦因苦果 三世因果の道理、修因感果 自性 魂
如来の行 解脱 輪廻 厭離穢土 欣求浄土
私が助けてほしいと想ったその時にたしかに弥陀が救ってくれた
それを感じました。今生きている世界は苦因をつくる世界
そして死後は苦因を受ける世界であると。
輪廻を繰り返し、いままでどれくらいの屍を積み上げてきたことか
その高さは計り知れないものになるそうです
私はこの世界三世全てが苦因苦果の因果の世界である限り
自ら修行して自らを済度することは不可能であると想います
阿弥陀如来は私の過去世の苦因を全て消し去り、私を苦因と苦果
の世界から仏の世界へと導き、仏にしてくれるのです。
自らが悪の塊である魂の持ち主である限り、その作るタネは
悪い実しか結びません。しかしながらこの弥陀の話の要点は
因果深信とあります。これは仏の例えでありまして
種を植えれば実がなるだろう。とあります、これはその環境の中で
あれば、自然と実が生る事をあらわしています
私が何か想うなり想わなくとも私の魂の行った因は私のわからない
因果の環境の中で自然と来世での果を招きます。
そしてそのことを因となり果となりと
なにかをしても因があり、なにもしなくても因があります
時間とともにしてもしなくても因縁を結びます
悪性ゆえにいつも因は悪果を結ぶものを作るのです
悪果はまたそれを精算したあとは悪因をつくる因になります
それが今現在の姿であるというわけです
私たちが悪因をつくるのは悪果がある証であるとはよく言われますが
その悪果がいずれどうなるかは今の行動につながります
悪果は悪因から生まれその因を消すのではありませんで
次に悪因を作る種となるのです。
私達の罪はそうやって作られてゆきます。悪性がやめられれば
その悪因を作る因を消し、善因を積めばよいのですが
自動的に生来もっている行動が悪なのです
食事、喜怒哀楽、ほか諸々です。
偽善だけれどすればよいとはよく言いますが
私は偽善だと認識してそれでも人助けを行うことはいずれ
己に返ってくるので、結局自己のためとなります
己の心を偽ってよいことをするのではなくて
自らの為になるという気持ちで行うのは良いと思います
しかし、それらの善でありましても厳然たる因果の道理から
見ますと一向に善とは生りえません
悪感情をもってはいけません。偽ってはいけません
この二つはどうしても解決できません
ボランティアの人も感謝されればやりがいがあるとおもいます
しかし不足を言われれば腹が立つでしょう。
これだけで悪因と生ってしまいます
自らの魂といいますか自性を変えなければその因は変わりません
それで初めて修因感果となります
つまり善をおこなう為には自らの自性を変えなくてはならない
己の自性さえ分からない者がどうやってそれを変えられるのか
ここで非常に難しい能力的な問題が出てきます
2010年9月28日火曜日
仏説について語ること 信心について思う事
今日はある宗教団体の方とご縁がよくありまして、そして真宗の勧学
また特定の宗教家の意見など、感じる点について整理してみたくなりました
機法一体 修因感果 機の深信 法の深信 堕地獄のこと 救済のこと
念仏について 行信 三願 誓願不思議 無常感 罪悪感
輪廻 三世因果の道理 死生感 一切衆生 魂 業縁 不可思議
善因善果 悪因悪果 自性 正義 邪義 他力 不可説
意見の差をを見ます まず機法という概念です。機とは己のことです
法とは本願のことです。 行信これともに他力というのが私の主張です
次には堕地獄のこと です これは語りつくせませんし、またほんの少し
此の話題に触れますと皆さん嫌な顔をします。桃尻というわけです
しかし某宗教ではこれを教義に組み入れています。
地獄秘事というわけでしょうか、私も地獄に堕ちるという実感があり、
それを感果する故に念仏をし救済を求める経緯がありましたので
この堕地獄のことは非常に大切な部分であります。
機法一体とは単純に救って欲しいと成る事と、救いたいという仏の願いが
一体であるという深い信が如来より賜るという事を表しているのです
次に無常感と罪悪感の話ですがこれも先ほどの話とつながっておりまして
無常とはいつ死んでもおかしくないという私たちの現実をいう事です
そして悪因や宿業を抱えた状態ならば、感果によって空恐ろしくなるのです
誰かに驚かされて、例えば、お前は阿鼻地獄に堕ちるぞと脅されて感果
があるのではありませんで、自らの持っている因、と宿業により、来世で
受ける果。これは非常に来世のことを分かる人はいませんので
オカルト的になるのですけれども、なにか分からないが非常に恐ろしい
その原因は何かそれは自らの自性が産み、抱えている爆弾を抱えているから
これをなくすのは阿弥陀如来の行による成果、本願です。
因果の道理を三世で説かれるのは私とほかの衆生についての話とつながります
基本的な話としまして、霊魂であるとか魂であるものの存在を肯定しています
衆生には魂があり、それは全て等しいというのが仏説です。
即ち因縁によりまして、猫になったり、爬虫類や鳥になったり、バクテリアや
微生物、植物とありとあらゆる生命体は私と同じ魂をもっています。
そして、この過去世においてありとあらゆる生物に生まれ変わり、行き違いを
繰り返し偶然の因縁により、人身を受けたとあります
人身受けがたし です。
そして、人となって生まれ、何をしているか、否してゆかなければならないか
これが運命であり、業因縁であります。うのけにいる塵さえも己の因縁である
と親鸞聖人が言われた所以だと思います。ご縁についての話でありますが
なにが起こるのも皆ご縁である。 袖摺りあうのも多生の縁と
この諺は袖が触れ合うのも多生ですからたくさん生まれ変わった縁ですよ
縁があるからそでがすりあっていて、縁のある証拠ですよという意味です
私はそういう世界で生きているのです。
避けられるのならば悪因を作る原因をさけ、
善因をつくれば、善果をうけます
しかし、無数の殺生の因を持ち、
それに見合う例えば苦しみを返すような慈愛の
性質は持ち合わせてはいません。自らの命を捧げて、ほかの魂の持ち主に
その欲を満たす為に自らの体を捧げる精神を魂を持っていません
むしろ殺されれば、必ずやりかえす。仇を討ちたいと思うのが本音です
私と同じ魂をほかの衆生ももっているということです。
仇を討ちたがっている魂が無数に存在し、
お互いに報復しあうと経典にあります
それを因といい、死ねば果を受けるとあります。
このような一部分でさえ恐ろしい
しかしながら、ここでまだ踏ん張る心があります。
私は良い部分もあるし
良い事もできると、しかしながら
、ひとつの殺業や殺因でさえ解決できません
そうなれば結果は明白でしょう。善因善果、
悪因悪果の理により次の生で
受けるのは苦か楽か。
いえ私はそれを繰り返してきたのです、
殺し、殺されというより、苦因と苦果の
繰り返し、今の世界は苦因を造る世界です、死ねば苦果を受ける。
そしてまた苦果により苦因をつくる。
これを痛ましいというよりも常没と
善導大師は説かれています。常没であり輪廻流転を繰り返す
浮かび上がることのない身であると、
そのそもそもの原因はどこにあるか
それは魂の性質にあります。己の魂が良いものであるならばその果は良い
しかし、己の魂は悪いものであるならその果は悪いと成ります
果が悪いのは魂が悪いからです。
その性質が悪いので悪因をつくってしまいます
悪因をつくる自性 新鮮なとはいい言葉です これは若くてうまそうだ
こういえば非常に恐ろしく聞こえますが
私のとっている行動を主客を変えてみます
例えばかに鍋を考えて見ます。 鍋に放り込まれくるしい
魚や魚介類は海水が
平均ですので、普通の水温でも人の熱湯に感じるそうです。
苦しんで助けてと思っているか、うらんでにらみつけているか分かりませんが
私のほうはごめんねとこころで笑う
これからうまい味覚を味わうのだから
ありがとうと感謝しています。むしろ嘲って、虐げるのが当然と考えます
かにや肉や米、野菜などには権利がありません。生存権などない
食事に供されるのが当然と。
殺されるほうからみますとこれが逆転です。お前には生きる権利がない
おれに食われるのが当たり前だ、食われても仕方ない、おれが死ね
若い方がうまいから早く死ね さらにまずければ吐き出す
話を戻しますが、一切衆生は皆同じ魂をもちと仏説にあり、
いろいろな体に生まれ変わっているだけだというのが
輪廻です。
これは善因ですか、悪因でしょうか、この心はやさしい良心ですか
私は自らの心が悪ゆえに悪因しか作れないという仏説は合理的である
そして死ねば恐ろしいのは悪因をたくさん抱えているからである
その悪因を全て消してくれるのは仏である
此の世界にいる生き物は自らの因縁に束縛される
悪因悪果、善因善果の世界に生きている
これは全ての生き物に当てはまります
この世界からでるということは悪因悪果、善因善果の世界から
無為といいましてそういった束縛のない世界に生まれさせるということ
これを解脱といいます
そして、ただ解脱させるだけでもすごいことなのですが
仏にするというのが阿弥陀如来の願いです
私の心に良い心を加えて、仏にするという事です
厭離穢土 欣求浄土
この世界は苦しいぞ、苦しいことしかないぞ、助けさせほしい
私が本願をたて修行したものがあるからその力で
助けさせてほしい。
悪因を全て消して仏にさせて欲しい
願作仏心 度衆生心
南無阿弥陀仏 南無不可思議光
また特定の宗教家の意見など、感じる点について整理してみたくなりました
機法一体 修因感果 機の深信 法の深信 堕地獄のこと 救済のこと
念仏について 行信 三願 誓願不思議 無常感 罪悪感
輪廻 三世因果の道理 死生感 一切衆生 魂 業縁 不可思議
善因善果 悪因悪果 自性 正義 邪義 他力 不可説
意見の差をを見ます まず機法という概念です。機とは己のことです
法とは本願のことです。 行信これともに他力というのが私の主張です
次には堕地獄のこと です これは語りつくせませんし、またほんの少し
此の話題に触れますと皆さん嫌な顔をします。桃尻というわけです
しかし某宗教ではこれを教義に組み入れています。
地獄秘事というわけでしょうか、私も地獄に堕ちるという実感があり、
それを感果する故に念仏をし救済を求める経緯がありましたので
この堕地獄のことは非常に大切な部分であります。
機法一体とは単純に救って欲しいと成る事と、救いたいという仏の願いが
一体であるという深い信が如来より賜るという事を表しているのです
次に無常感と罪悪感の話ですがこれも先ほどの話とつながっておりまして
無常とはいつ死んでもおかしくないという私たちの現実をいう事です
そして悪因や宿業を抱えた状態ならば、感果によって空恐ろしくなるのです
誰かに驚かされて、例えば、お前は阿鼻地獄に堕ちるぞと脅されて感果
があるのではありませんで、自らの持っている因、と宿業により、来世で
受ける果。これは非常に来世のことを分かる人はいませんので
オカルト的になるのですけれども、なにか分からないが非常に恐ろしい
その原因は何かそれは自らの自性が産み、抱えている爆弾を抱えているから
これをなくすのは阿弥陀如来の行による成果、本願です。
因果の道理を三世で説かれるのは私とほかの衆生についての話とつながります
基本的な話としまして、霊魂であるとか魂であるものの存在を肯定しています
衆生には魂があり、それは全て等しいというのが仏説です。
即ち因縁によりまして、猫になったり、爬虫類や鳥になったり、バクテリアや
微生物、植物とありとあらゆる生命体は私と同じ魂をもっています。
そして、この過去世においてありとあらゆる生物に生まれ変わり、行き違いを
繰り返し偶然の因縁により、人身を受けたとあります
人身受けがたし です。
そして、人となって生まれ、何をしているか、否してゆかなければならないか
これが運命であり、業因縁であります。うのけにいる塵さえも己の因縁である
と親鸞聖人が言われた所以だと思います。ご縁についての話でありますが
なにが起こるのも皆ご縁である。 袖摺りあうのも多生の縁と
この諺は袖が触れ合うのも多生ですからたくさん生まれ変わった縁ですよ
縁があるからそでがすりあっていて、縁のある証拠ですよという意味です
私はそういう世界で生きているのです。
避けられるのならば悪因を作る原因をさけ、
善因をつくれば、善果をうけます
しかし、無数の殺生の因を持ち、
それに見合う例えば苦しみを返すような慈愛の
性質は持ち合わせてはいません。自らの命を捧げて、ほかの魂の持ち主に
その欲を満たす為に自らの体を捧げる精神を魂を持っていません
むしろ殺されれば、必ずやりかえす。仇を討ちたいと思うのが本音です
私と同じ魂をほかの衆生ももっているということです。
仇を討ちたがっている魂が無数に存在し、
お互いに報復しあうと経典にあります
それを因といい、死ねば果を受けるとあります。
このような一部分でさえ恐ろしい
しかしながら、ここでまだ踏ん張る心があります。
私は良い部分もあるし
良い事もできると、しかしながら
、ひとつの殺業や殺因でさえ解決できません
そうなれば結果は明白でしょう。善因善果、
悪因悪果の理により次の生で
受けるのは苦か楽か。
いえ私はそれを繰り返してきたのです、
殺し、殺されというより、苦因と苦果の
繰り返し、今の世界は苦因を造る世界です、死ねば苦果を受ける。
そしてまた苦果により苦因をつくる。
これを痛ましいというよりも常没と
善導大師は説かれています。常没であり輪廻流転を繰り返す
浮かび上がることのない身であると、
そのそもそもの原因はどこにあるか
それは魂の性質にあります。己の魂が良いものであるならばその果は良い
しかし、己の魂は悪いものであるならその果は悪いと成ります
果が悪いのは魂が悪いからです。
その性質が悪いので悪因をつくってしまいます
悪因をつくる自性 新鮮なとはいい言葉です これは若くてうまそうだ
こういえば非常に恐ろしく聞こえますが
私のとっている行動を主客を変えてみます
例えばかに鍋を考えて見ます。 鍋に放り込まれくるしい
魚や魚介類は海水が
平均ですので、普通の水温でも人の熱湯に感じるそうです。
苦しんで助けてと思っているか、うらんでにらみつけているか分かりませんが
私のほうはごめんねとこころで笑う
これからうまい味覚を味わうのだから
ありがとうと感謝しています。むしろ嘲って、虐げるのが当然と考えます
かにや肉や米、野菜などには権利がありません。生存権などない
食事に供されるのが当然と。
殺されるほうからみますとこれが逆転です。お前には生きる権利がない
おれに食われるのが当たり前だ、食われても仕方ない、おれが死ね
若い方がうまいから早く死ね さらにまずければ吐き出す
話を戻しますが、一切衆生は皆同じ魂をもちと仏説にあり、
いろいろな体に生まれ変わっているだけだというのが
輪廻です。
これは善因ですか、悪因でしょうか、この心はやさしい良心ですか
私は自らの心が悪ゆえに悪因しか作れないという仏説は合理的である
そして死ねば恐ろしいのは悪因をたくさん抱えているからである
その悪因を全て消してくれるのは仏である
此の世界にいる生き物は自らの因縁に束縛される
悪因悪果、善因善果の世界に生きている
これは全ての生き物に当てはまります
この世界からでるということは悪因悪果、善因善果の世界から
無為といいましてそういった束縛のない世界に生まれさせるということ
これを解脱といいます
そして、ただ解脱させるだけでもすごいことなのですが
仏にするというのが阿弥陀如来の願いです
私の心に良い心を加えて、仏にするという事です
厭離穢土 欣求浄土
この世界は苦しいぞ、苦しいことしかないぞ、助けさせほしい
私が本願をたて修行したものがあるからその力で
助けさせてほしい。
悪因を全て消して仏にさせて欲しい
願作仏心 度衆生心
南無阿弥陀仏 南無不可思議光
2010年9月23日木曜日
雷
今雷が鳴っています、子供から思春期そして青年期においては
非常に恐ろしく恐かったのを覚えています。
感性が鈍ったのか今ではなんとも思いませんが
子供は暗闇を非常に恐れ、恐怖します。小さいものごころつかない
子供は特に恐れます。自らが産まれる前の記憶がそうさせるのかも
しれません。 雷の音を聞くときに地獄の音に比べればそれほど
恐くはないにしても自然現象でさえ、自らの命を奪う恐れのある
光や音に畏怖してしまうのであるなと思っています
魂が本性がいろいろと覚えているのではないかと思います
そして次の世界に対する恐怖、苦因は苦果を感じ、楽因は楽果を感じる
苦因はとあります これは苦しみのタネです苦果は苦しみの実です
苦しみのタネをもっていれば、苦しみの実がなるのが分かるとあります
恐いのは苦しい結果を受ける原因をもっているからであると
説かれています
楽因は楽果を感じる
楽な結果を生み出すタネをもっていれば楽果を感じるのですから
恐怖はないはずです
私はこの経文を読んだときあまりにも当てはまるのでなんと尊い
経典かと感じたものです
短い言葉のなかに要点がそのまま書いてありますし
また感覚的にわかるのですからさすが佛語であります
簡単です、恐いのは苦因をもっているからです
苦因を消してくれる仏がいます
けしてくださいといってみてください
南無阿弥陀仏 南無不可思議光
非常に恐ろしく恐かったのを覚えています。
感性が鈍ったのか今ではなんとも思いませんが
子供は暗闇を非常に恐れ、恐怖します。小さいものごころつかない
子供は特に恐れます。自らが産まれる前の記憶がそうさせるのかも
しれません。 雷の音を聞くときに地獄の音に比べればそれほど
恐くはないにしても自然現象でさえ、自らの命を奪う恐れのある
光や音に畏怖してしまうのであるなと思っています
魂が本性がいろいろと覚えているのではないかと思います
そして次の世界に対する恐怖、苦因は苦果を感じ、楽因は楽果を感じる
苦因はとあります これは苦しみのタネです苦果は苦しみの実です
苦しみのタネをもっていれば、苦しみの実がなるのが分かるとあります
恐いのは苦しい結果を受ける原因をもっているからであると
説かれています
楽因は楽果を感じる
楽な結果を生み出すタネをもっていれば楽果を感じるのですから
恐怖はないはずです
私はこの経文を読んだときあまりにも当てはまるのでなんと尊い
経典かと感じたものです
短い言葉のなかに要点がそのまま書いてありますし
また感覚的にわかるのですからさすが佛語であります
簡単です、恐いのは苦因をもっているからです
苦因を消してくれる仏がいます
けしてくださいといってみてください
南無阿弥陀仏 南無不可思議光
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