2021年1月6日水曜日

急 救 いそげと

 ふと、聖徳太子のみ言葉を聞き。思いました。急げと助けるとは同じ音だと。

弥陀は急いで助けたいと常に願われて、私たちの傍に常に働きかけておられます。

急いて全ての衆生を佛にしたいと願っておられ続けられています。休むこともありません。

私たちは本来智慧があれば各々自ら弥陀の救済を受け入れるはずでしょう。三世の因果と

生死が理解できれば、来世の自らの姿を確認できれば、あるいは過去世の自らの姿をみることができたならば。弥陀を頼まない選択はあり得ません。 ですが往き易く人なし。昨今も

念仏の姿についての議論は幾度とも幾重にもあるのですが。信心について色々なことをおっしゃっているのです。人の粗を探そうと思えば際限なく、私ならばできるでしょう。しかし意味がありません。ブログで信心が聞けるとは思ってはいませんし。おこがましいとも思いますが。縁にはなるかもしれないと。そう思って書いています。弥陀は船です。この世界と弥陀の世界を渡す船なのです。弥陀の船に乗れば弥陀の国に行けるのです。弥陀の船に乗る。弥陀の国に行きたいと思えば行ける。たったそれだけの事なんです。そんなに難しく考えなくていいのです。 欲生我国 と 私の国に生まれてください。とお願いしている仏様に生まれたいと返事するだけのことです。 そのために何も必要がないんです。 この穢い身体を捨て。浄い身体を受けるとあります。 仏の身体を仏からもらって、仏の国に生まれれば。悪いことをしなくて済むんです。 そのための修行を代わりに阿弥陀如来がしてくれているのです。仏の国に生まれて仏になってくださいと願う仏がいます。 仏にしたいと。安楽の国にうまれ。仏になるのです。いまの私のこころがそのままに仏の行を加えて仏にしてくれるのです。

穢身をすて浄身を受く 南無阿弥陀仏 みだの船に乗れ皆人とか聖徳太子のみ言葉です。

阿弥陀仏とは私のことを仏にする行を指す言葉です 南無とはその行に帰命することです。つまり仏になりたい。仏の国に仏の力によって生まれさせてもらいたいと言葉にするのが一念です。 そのあとは仏に仏の念仏を頂いて心の中に常に私に代わって念仏する仏を感じるのです。その姿に感謝しない日はありません。仏はいますし。救済は完璧です。もし仏の行がなかったならば、私は自らの因縁により殺し合いを繰り返すばかりか、仏になれる行を積むことも叶いません。いくら年月をかさねても叶いません。仏の力を誰も信じないのですが。仏は見事にその力を発揮します。仏の国があり この世界と違う国です そこには仏がいます。阿弥陀如来に仏にしてもらった無数の仏がいるのです。この世界から仏の世界に

いずれすべての衆生が仏となって生まれる日がいつかくることでしょう。しかし急げ皆人です。仏になるのが早いほうがいいに決まっているじゃありませんか。生きている間に仏の国に生まれたいと返事するだけで救ってくれるのです。信じなくてもです。やればわかります

2020年8月21日金曜日

厭離穢土のこと

 厭離とは厭い離れること。穢土とは穢い土のことです。この話を自分のことを中心に考えてみます。 穢土はきたない。何故きたないのか。それは死体だからです。基本的に死体が中心の世界を穢土というのです。浄土には死体がありません。仏になれば死ぬということがないからです。成仏すれば死なないので穢土になりようがありません。私たちの世界を振り返ってみれば、まず土は死体の塊であるといえるでありましょう。どれだけ科学が発達しようともこれだけは変わらないことでしょう。死体が基本です。死体の栄養を食べているのです。石油も死体であります。死体まみれの世界、自分の死体を過去世から今までと考えてみたら、どれほどの死体を積み上げてきたのか想像もつきません。他の者の死体と自分の死体。殺した者の血肉を食べなくとも、死体から取った栄養を食べているのですから。自己も死体になるのです。それも必ず。自分に縁がある衆生を殺して食べ、自分が来世で殺されて食べられる。自己の身体も無数の生命の死と生が繰り返されることにより、生きていくようになっています。自己が死ねばまた新たな身体になり前世の行いの報いを受ける。因果応報です。何が言いたいのかといいますと、自分の信心においての決め手の一つなったのが正にこれです。死体の世界と殺し殺される世界。究極はこれしかない。殺すか殺されるか。だれかの栄養になるか栄養にするかしかない。食うか食われるか。やるかやられるかしかない。世界をよくみると佛のほうから見ると穢い世界を好き好んで堪らないのが我々です。がしかし仏の智慧により穢土と知らされる。死体にするか自分が死体になるかしかないのですから。悲しい運命を永遠に繰り返すしかない。繰り返してきたのですから。はっきりと言葉が繋がります。生死を厭い離れるのが厭離穢土です

2019年12月25日水曜日

修因感果

自身の悪機たることをしらざるになる。おほよそ凡夫引接無縁の慈悲をもつて修因感果したまへる別願所成の報仏報土へ五乗ひとしく入ることは、諸仏いまだおこさざる超世不思議の願なれば、たとひ読誦大乗解第一義の善機たりといふとも、おのれが生得の善ばかりをもつてその土に往生することかなふべからず 悪業をばおそれながらすなはちおこし、善根をばあらませどもうることあたはざる凡夫なり 口伝称から 法然上人から親鸞上人への中に 自分の悪業について書いてあります。ここを使って批判するわけではないです悪しからず、何が言いたいのかといいますと。悪業を恐れながらすなわち起こし、なぜ恐れるのかすなわち分かるからです来世の報いを、あらませというのは古語で期待してという意味です、期待して善根を植えようとするけれども得ることができないという意味です。自分が悪機であることを知らず、己が悪業をおそれながら起こし、己の善業は期待しても得られず。私の言いたいことが口伝称にそのまま書いてありますが、現代語に訳すと少しわかりやすいですね。善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるここも口伝鈔ですね。なんとも有難い。ここが私は信心の要の一つであると思っています。悪業を感じる、自身は悪機である、殺したものに謝意を示すといえども旨い不味いという己の機は鬼そのもの、その機が作る悪業無始以来つくる悪業を恐ろしいと感じないわけがないのであります。その感じる悪業を仏が除くのでありますが、どうすればいいのかとよくあるのですが、悪業を感じるから除いてほしいと実はなかなか思わないのです。私のことよく知っている仏はここに本質のラストのクライマックスを用意しているのです。それが三世因果を超越し、仏の姿にし仏の国に生まれさせて救済すると仏のほうからお願いしますと願うこれを南無阿弥陀仏というのです。すなわち悪業を除くだけではなく、二度と悪果を受けないように何もしないできない私に仏になる果を与え、仏になってくださいと願う仏が阿弥陀如来なのです。私の国に生まれたいと願ってください。そう願ってくだされば、必ず救います。南無阿弥陀仏 さらに言いますと悪業を仏はどうやって消すかそれは私が殺果をもてば己が殺され、すべて代わりに受けてしまわれるのです。そしていつも私の中で仏がいることを教えてくれます。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて となり 生死を出離し浄土に往生となります。生死とは因果の世界、浄土は非因果の世界です。死ぬことがないです。仏のままです。

回向と不回向と以心伝心

真実信心とは明らかに体験であり、心をもって心を伝えることが必要であり、
信心獲得ということが昨今なくなってしまったと感じるのであります。
確かに分からないというのは無理がない。分かる道理がありません。
なぜならば仏による救済だから、仏の知恵なのです。だけれども、心が欠けていては
無理なのです。地獄に落ちるか否かについては明らかではありません。
しかしながら、往生ということについては信心が明らかに条件である。
菩提心ともいう。発菩提心ともいう。凡夫から起こす菩提心ではなく、仏からの回向
による信心である、その面から称名と結び付け、称名を行とするといっていますが
、それはこじつけという批判があります。称名は明らかに正しいですが、往生の真因は
信心すなわち菩提心。菩提心を得るために聖道門の方が修行を行い菩薩になられ仏となると。浄土門は称名だと。じつは浄土門は念仏です。念とは心なので。称ではない。ナンマンダブと言うことではなく、念ずることです。この念において回向と不回向とあるのです。仏が凡夫の中に入り回向する状態を信心を得た状態というのです。そしてその念仏の主体が仏なのです。仏が自動的に念仏を凡夫の中で行う状態を信心というのです。太陽に照らされた月は己が力によっては何もしない。まったく何もしない。
大事なのはやはり信心を得ることであるのです。しかしながら、仏の知恵なので分からない。得た者は非常に少なくいないに等しい。カルトと言われても仕方がない。そしてさらに難しいのは心をもって心を伝えなくては伝わらないところが難しい。機会的にはかなり難しい。宗教として考えてみれば、門即信という側面はある。真宗のお坊さんが阿弥陀如来の功徳によって救われると説くことをあながち否定することはないけれど、信心を否定するのは明らかに誹謗正法であります、しかし仏は許すに決まっている。佛に罰はない。
あるのなら救われるわけがない。ここに書いて何になるのかとも思います正直。
しかしながら真実信心があり、以心伝心があり、仏の心があり、伝え伝わっていることがあります。そのこころは機を知らしめて、たのむ機にほとけの回向があり、菩提心を得ることがあり、仏の念仏を得るのですから、称名を正業とするというような話とは違います。念仏ですから称仏ではないのです。明らかに違います。どうすれば得られるか一人で得る方法があるのだろうかと常に思い悩んではいるのですが、修因感果の道理により、
己がしたことの結果を己が感じる、それは来世の報いを今感じる。すなわち死後の恐怖とは来世の己が報いであると。死後恐怖を感じず怖くないとなるにはその果が楽の果でなくてはなりません。これを書くなれば楽因が楽果を感じ、苦因は苦果を感じる。この理により後生に焦点をあて、苦果であるか、楽果であるかなのですから自ずから明らかになります。

2018年8月15日水曜日

帰命無量寿如来 南無不可思議光

帰命無量寿如来 南無不可思議光 無量寿如来に帰命せよ 不可思議の光を
たのみ。 私が信心の話をしていただいたこと。その記憶をたどりほかの人が
信心を得ることがもしもできたならと思い 書き綴っています。しかしながら
経典は口授を基本としているかのようにも思え。どうかなとも思いますが。
厭離穢土 の穢土について考えてみるとですね、まず穢土とは汚い土という意味です
これは死体が土に還ることからも 土は死体の山そのものです。浄土には死体はない
死ぬものがいない。殺したり殺されたりはしないわけです。自分がこの法を聞いて
まず分かったのは自分が残虐なことをして顧みないということ。自分がしている
ことをつぶさに見て取れば、悪いことしかしていない。なぜならば自性が悪であるから
悪性により因果は悪因となり悪果を得る。そう鑑みてみれば、悪因しか作ることが
出来ない世界で悪因しかつくらないから、どうしようもなくて、どうすることもできない。世の中でどんな評価を受けたとしても一度生を受ければ必ず殺す縁を結びます。
なにか生き物を殺さずに生は送ることさえできません。因果とは輪廻と結びつくのであって。因果深信とはすなわち、この世界が終わったらですね、来生、再来生、再再来生と
延々と因果の道理によって、殺されたり殺したりを筆頭にいろんな世界にうまれかわり
たちかわりして、いろんな目に合うということです。この世界にいる限り、因果と輪廻により、苦しみから逃れることはありません。苦の種をつくるか、苦の果を受けるかしか
ないのが当たり前の世界にいて、快楽を求め続けるのが私たちなのです。真実の快楽は
一つとしてないのにもかかわらず。楽しそうに苦の種をこしらえている。死んだら天国に行っていると思い込んでいる。死ねば仏になると。念佛もせず、信心も取らずに。
もともとは聖道門の教えは菩提心という悟りを得るのが目的でした、そして修行をして
菩提心を得、仏になるという道を目指すのです。そのために修因感果という道理によって
修行をして因をおさめ善い行いをして善い結果を感じるまで修行しなさいとなるのです。
それを愚直にやったのがかの親鸞上人となるのですが、結局はできません、お先真っ暗ですと法然上人のところへ行きます。そうしたら、そのことを教えてくれたのが仏様であると、なんにもできないことに気が付いたのは自分の力ではない、それも他力であると。
この修因感果こそ真宗の神髄であり、すなわち感じることができる、自分の行いの結果は
どうなるかわからなくとも、感じることができる。恐ろしいと感じるということはすなわち悪業をもっているということに他ならないのです。そして無常の風に吹かれ、その悪業もろとも落ちていく可能性があるのです。おそろしいと感じるのが後生の一大事なのです。つまりはなぜ恐ろしいと感じるのか、それは自分の行いが悪いからです。良いことをしていれば楽しいと感じるのです。この仏説から後生の一大事につながり、悪業を消して
もらうとかそういうことになるのです。だからまず頼めとたのめがやがて信心を向こうから授けてくれると、念仏して恐ろしい来世の悪業を消してくださいと念仏してくださればよいのです。たのむ機にやがて信心を与えるとあるのです。とても簡単なのです。
だれでも恐ろしいはずなんです。恐ろしいのは悪業を持っているからです。だからタノムのです。すればすぐに答えがでるのです。私は強情でしたので、なかなかたのめませんで
結局は解脱という理からそのきっかけになったのです。因果の世界から出してもらえる。
仏にして出してもらえる、その餌についたんです。なんでもいいんです。仏にして仏の国に生まれさせてくれるんですから。悪いことしかしない私を。恐ろしいことをして知らんふりすることしかできない私をです。代わりにどれほどの苦しみを積んだのか想像もつきません。私一人のためにどれほどの苦しみを背負ったのかわかりません。ただ念仏するとそう思います。南無阿弥陀仏 弥勒菩薩はこの星で仏なって生まれます。弥勒の名を聞けば地獄には落ちません。しかし仏をたのんでください。どうか

2018年5月13日日曜日

五劫思惟の願を

念仏とは何を指すのか、一念帰命、信心を発起せよ。
生きて、死に、次の世にうまれ、またその世界で死にと
つまり、生まれ変わり、死に変わりを繰り返す。
常没と善導大師は説かれ、早い話が常に、三悪道に落ち
因縁が尽きるまでその場に留まり、なにかのきっかけで
人となり、また死んでゆく。仏の世界から見れば、この世界
は因縁とその縁果に縛られて、どうすることもできない苦の世界
1つ殺せば、1つ殺され、今殺す因縁は今後は殺される
果となる。その姿を等活地獄に描かれている。
その身に宿る因縁を宿業と呼ぶ。身に宿るものだから
業因の業とはもともと、行うという意味があります。
業と言えば仕事をイメージしますが仏教で業と言えば
行いを指します。因果論はとても難しいのですが
その論理よりは、身に宿るものが有ると説かれているもの
つまり、日々生きていくときの殺果や悪いおこない
それが来世において、自分に返ってくる。ここで脅す
地獄秘事であるものとかいうのですが因縁果は身に宿るもの
であると御釈迦様が説かれているのですから
それは当たりません。自分の行いが良ければ良い結果
が悪ければ悪い結果が身に宿るのです
そして、それを感じながら修行するのが聖道門です
修因感果と言う言葉があります。それを行なったのが
親鸞という人です。わたしは良い行いをして、経文に
書かれているように修めて行いをし、良い結果つまり
来世において、いい結果を生むように努力したのですが
何にもできません、心は正直にならず、愛欲は尽きず
心の残忍性も治らず、良い結果を感じることが
できません。すなわち、私の行くところは地獄なのだと
かの聖人はおっしゃっています。つまり仏教の身に宿るものを
どうにかして、という見地からみても普通の人のように
見えませんが、いまの真宗は念仏を唱えれば良い
そう言うのですが本来 念仏は仏の行、なのです
仏が念仏をして、それを頂く。仏の行をたのむ中には
宿善と説かれています。真宗の究極は宿業を宿善の力で
消し、宿善の力により仏にしてもらうとあるのです
凡夫の口称の念仏は弥陀の名において功徳がありますが
本来の目的は宿善。この宿善は仏の行。すなわち仏が
身に宿る。これを信心と
どうすれば、仏が身に宿ってくれるのか。これは親鸞
聖人がやったように、自分の行いを見て、そして
次の世に何が返ってくるかを考えてみたら、我が身に
宿る悪業はとんでもないものなのですから、とてつもない
恐怖心と嫌悪感でいっぱいになるはずです。
それをすべて代わりに、消して来世において仏にし
仏の国に生まれさせるという行を阿弥陀と呼ぶのです
その行をたのむことを、南無とつまり、南無阿弥陀仏とは
阿弥陀如来の行をたのむこと。そして念仏は仏の方から
賜る、身に宿る行として、消えず、なくならず、すてず。
欲生我国 摂取不捨 です。わたしはこの修因感果の道理
から来世の果を弥陀の行によって消してもらう。
早い話が、来世が怖くてしかたないなら、弥陀の行を
頼む 仏が代わりに念仏をしてくれるのです。
仏の行を貰う。これが究極です

2017年10月3日火曜日

人が仏になろうと願い阿弥陀佛を念ずるならば

人が仏になろうと願い 阿弥陀仏を念ずることを発心というのでしょう。菩提心を発心させてもらう。仏になろうと願いというところがとても大事です。仏様はなかなか面白いことを言っておられます。功徳には限界がない。罪業には限界がある。過去世、来世
現世とありますが、来世がつらいのは誰しも嫌なので、浄土を願うこころがあると。輪廻流転して出られないのは自性が悪だからです。うまい、まずい、というこの自性殺因殺果なのに、因果をないものと思い切って。うまいなあと殺していう。この自性の持ち主のいく果てが地獄なのであって、その地獄で苦しみを清算したら、また人間やその他もろもろの衆生となって生まれます。その屍を積み上げたら世界一高い山をもっても全然足りないと。衆生はほぼ悪性をもっています。そしてお互いの因縁によって苦しみを与えあうのでしょう。厭うべきはこの娑婆世界。望むべきは極楽浄土。仏になるのに阿弥陀如来の力をタノムことを念仏。南無阿弥陀仏。来世はつらいはずだったのに。罪罪業をすべて消滅さえていただいて。この娑婆世界からおさらばして、仏になって生まれられるとは何とありがたいことかと。阿弥陀如来の力は果てしないですが、罪を滅し、仏と同体の姿に往生させる修行をしたその行を阿弥陀という。阿弥陀とは行なのです。ほとけの忍終不悔の賜物。阿弥陀の行をたのむ、たのむことを南無という。南無阿弥陀仏とは仏の行をたのむということです。それは人が仏になろうと願い、阿弥陀佛を念ずることです。南無阿弥陀仏。願わくばもろもろの衆生とともに往生せんことを。一人でもこの仏の願いにかなうことを。そこまでいかなくても縁を結ぶことを祈ります。南無阿弥陀仏

2017年2月26日日曜日

何を知ればよいんだろう 常没流転の身 出離の縁なき身

今日は輪廻転生について考えようとおもいます。
常没流転 常に没する これは解脱ができない。自力ではこの因果の世界から
抜け出られることがないという意味を指しています。
輪廻とは転生を繰り返すことをいいます。
因果の世界の中でおいて 悪因縁にしろ 善因縁にしろ どんな因果を
積み重ねたにしろ この世界から抜け出ることはできないのです。
釈迦如来のいう修行を行い 菩提心を得て悟りを開き 仏の位に立つまで修行
あるいは阿弥陀如来の修行した果をいただくか どちらにしても仏の教えで
しかこの世界を離れ 違う世界に生まれることは叶わないのです。
私自身を振り返ってみれば あれが旨い まずいという 精神の持ち主です
新鮮なほうが旨い 活きのいいほうが旨いといって食べているその心のどこに
慈悲があるといえるでしょうか 悪性は身に備わっています つまり修行もできない
何にもできない身であれば つねに地獄にいくか つぎもまた幸運なら人間になる
可能性もありますが 仏の国に生まれることにならなければですね くるくると
沈む 沈むというのは地獄に落ちるイメージもありますが 断定できないですから
つねに 仏の国にうまれることはできないということを言っている。ということで
はないかと思います。
信心とは欲生我国 摂取不捨 という仏の願いにかなう そのお礼が念仏である
真の念仏とは如来と同体になり 如来が私の心の中にはいり 何もしなくても
声に出さなくても 一声も出せなくても 勝手に代わりに念仏してくださる
私の心の中で絶え間なく 途切れることもなく 寝ても覚めても 四六時中
信心とはそういうもの 菩提心をいただく 悟りを開く事ができない身でありながら
仏種が身に宿る 宿った信心が宿善なのに 念仏を称えることが信心であると
これは邪なことであると考えます。 自性が悪因縁を積み重ねることしかできないと
宗祖が言っているのにも関わらず 称名が真因であるかのように説くのはおかしい
称名も弥陀から賜らないと真実ではない。 なんまんだぶと何万回となえてもそれは
信心とはいえない。 そうなら なんまんだぶ ととなえなさい だけでよい
あれやこれや なんもいらん そんな話ではないと思う 自性を知り 仏の国に生まれたいと願う 欣求浄土 厭離穢土 欲生我国 
で何を知ればいいのかと 私は思ったのはやはり 輪廻するということと 自性を鑑みれば 死体の山を築くしかできないと 殺すか殺されるか もっと鑑みれば苦を受けるか
与えるしかない 楽といっても苦から逃れない 因果と生死は繋がっている。
つまるところ 浄土にうまれ仏にならなければ 苦から逃れられない。
だから 願う仏に苦をなくしてほしいという 仏の肩代わりしてくれた行に
自分の苦の消滅と次の生で仏の姿にしてほしいとタノム
この形を南無阿弥陀仏という。 仏はすべて肩代わりしてくれる。輪廻を解脱させ
仏の国に仏として生まれさせてくれる。
諸苦毒中 忍終不悔 私のために苦しみの中に飛び込み 無量の間苦しみぬき
私のために なにもかも 苦しみを消し去り 仏の種を私に宿らせた
そして この仏はすべての衆生を救うと ただ私の国に生まれたいとおもってほしいと
ほんとうに助けてくれる 私の苦しみの種をすべて 消滅させてくれる。本当は
修因感果の道理より じぶんでひとつひとつ消していかなくてならないのに
全部消し去ってくれる。 仏の国に生まれたい 苦しみの種をとってほしいと
さらにその上信用する度量も持ちあわせていない 私のために向こうからお願いされている。助けさせてほしいと 仏が頭を下げてというかへりくだってお願いしているのです。
どうか受け取ってと信じる必要もないと。 ただ恐ろしいでしょう 死後のことが
本当はね私が思うにはこれが仏の力ではないかと思うのです。 死後恐ろしいと感じる
感性は本来ないのに 思うのはその力ゆえに後生を気にかけ 仏の国に生まれたいとおもうから 目を背ける自分に対して 恐ろしいと思うのは仏の力かなと 苦の種をもっているのですよと 仏がおしえている。 私に消滅させてほしいと仏がお願いしている。
そして苦のない世界に生まれさせると。その根拠は私の修行ですと さてその行を阿弥陀といい それをたのむことを南無という そして回向は如来から 一念のあとは憶念の信となり 決して私がボケようが 気が狂おうがなくならない信として向こうが常に私のこころのなかに宿ります。私は阿弥陀如来を忘れることは決してありません なぜなら
宿るからです。 仏の行をたのむ 他力信心のゆえんです 他力といいますが決して
離れるものではありません。 私は難しい話はいらないにしても 怖いと感ずるのは
仏の力ですから 怖くなくなればよいのです 怖い=苦の種をもっている
苦の種を仏に消滅しもらう=安心 となります 苦の種を消してくださいとたのむ
一回だけでいいのです 簡単です 怖くなくなるようにしてでもいいかもしれない
かの国に仏となって会うことを 願います 弥勒菩薩の名前を聞くだけでも地獄に落ちないそうですが。往生人になるには仏の力をたのむほか ありません。

2016年12月21日水曜日

死んでしまう人 縁無き人の為に

きっと今日にも昨日にも明日にも死んでしまう人がたくさんあることでしょう
それが当たり前ですがふと思います。どこで縁になるかわかりませんが弥勒菩薩という仏の名を聞くだけで地獄にはおちないと。ミロク菩薩です。阿弥陀如来はどうでしょうか?聞即信とも言いますが、聞くだけでいい名前とも言えるでしょう。称名にも当然功徳があるでしょう。ですがね。往生したいと思う。
生まれたいと欲することが大事なんです。生まれるためには生まれたいと思えとあるだけです。私の国に生まれたいと欲を出してと。阿弥陀如来の国に生まれたいと欲を出しておもってと。死んだ後仏にするからと。そのままでは人の世も地獄も餓鬼も畜生も何もかも汚い死体を積み上げるだけだよと。仏の国に生まれて仏になってしまえば二度とそうはならないよと。私の国に生まれて下さいとお願いされてる仏が阿弥陀如来ですよと。生まれてやるよと返事してあげればよろしい。悪因全て消して仏にしますよと、もう怖がらなくていいよと。生まれたいというのと。助けてというのば同じこと。私の身を振り返れば悪因縁を作ることばかり殺生だけでもどのくらいしてるだろう数えきれないのに。でも本質ば生まれたいと思えですのでね、因縁果と三世を超えることを横超と言う。ミロクの名を聞くだけで地獄には落ちないと。全て仏だねでありましたと頭が下がるときがきます。南無阿弥陀仏

2016年9月13日火曜日

厭離穢土 欣求浄土

恵心僧都 これを説かれ末代の私が聞く。往生要集は聖典なりと。
それ 厭離穢土 というは、汚らわしき土をいとい。いやだと思い
離れることなりと 
次に欣求浄土とは 極楽浄土に往生を遂げんと願い求めよと
仏の教えたまう綱領なり。

前世 今世 来世 あり その世界は輪廻する。苦あるのみ

ただ恐ろしくあるかないかより 厭い離れるべき世界

欣求浄土とは 仏の国に生まれたいと 生まれるには念仏というので

はなくて。 仏の国に生まれさせる力を仏が持っている上に

生まれたいと思えば捨てて離さないというのが

阿弥陀如来です

仏の国に生まれよと これが念仏です

生まれよと生まれておくれと 

願う 願い に 頼る 

仏の国に生まれてくれよという願いに

生まれたいと答える

ここが肝要です。 欲生我国 摂取不捨 南無阿弥陀仏

願わくば もろもろの衆生とともに往生せんと

恵信僧都はとかれたと。

後生は一大事ですよ

仏の国に生まれたいと願うだけですよ

仏が仏にしてくれる 仏の国へ渡す

度衆生心 浄土を願い求めよ

仏は必ず救うと

この世界をいとい離れることと

浄土を願い求めることは同じこと

これを機法一体ともいう。

殺せば殺され さらに殺したものは私を殺した者

一つの因縁にしてもしかり。 悪道は我が住みか

屍を積み上げるのみ、自性は欲ばかり

作る因は悪因のみ 今の世界が先の世界の種

になり であるが 今の世界は前の世界の果で

あるのです。 先が恐ろしいのならば その理から

この世界をいとい離れるべきではないでしょうか

自殺とか言っているわけではないです

助けてほしいということと 死後 浄土にうまれたいと

ねがうことは同じことです。

そのために阿弥陀如来の行があり。願いがある。

細かい理屈はあとでよい まず生まれたいと思うこと

死後 仏の世界で 仏になりたいと思うこと。

死のいまわでも間に合う 怖いのならば仏になりたいとおもうこと

この世界から離れ 仏の国に生まれたいとおもうこと

これが後生の一大事




2016年9月12日月曜日

私の聞いたこと

 まず、現在の浄土経において、修因感果という理を
いうことが肝要であり、三世因果の理を説くことも重要である
はずなのですが、もともと、いかんせん地獄に落ちるということを
誰も説き切れるものは居ません。
なぜならば、逆説で考えると私がこの世に生を受け、人となり
さらに信心を起こすことが因果の理からして
ありえないからです。地獄は一定な私が今、人として生をうけ
生きていること自体が矛盾するからですね。
因果の論理をひもとくのは尋常ではありません。
然し修因感果の道理は一番、わかりやすく。
私から言えば、簡単ではないにしろ、怖い結果を招くものをもっているから
怖いんだという仏の理を受けて、それが後生で炸裂するか否かまで
はっきりとは分かりませんが、悲惨な死に方をする人もいるわけで
やはり油断大敵であります。
リスクを避けるという点でも。死んだあとのことに少しでも
恐怖を感じるということなら、仏の救済にチャレンジしてみましょう。
死んだあと仏の国に生まれて、仏になりたいと思う。
この根拠は。因果がない世界に生まれるから死なない世界にうまれる
つぎに、仏になるのだから悪いことをしなくなる。
悪いことをしてその恐怖におびえなくて済むようになる
仏のみ名を聞くだけ。唱えるだけの功徳を頼むより
後生を仏の国にする。前も今も仇と恨みばかり
この先も永遠に続きます。ここを離れて仏の国に生まれることを
ねがうばかりです。駄文ですがここまで
南無阿弥陀仏 弥勒菩薩の名前を聞くだけで地獄には落ちないそうです。
しかし願わくば仏の国に生まれたい。 殺し殺されなくなります。
殺果を受けることのみでもおそろしいのに殺因をつくることからも逃れられない。
永遠に生と死をくりかえす、その世界から出して仏にするために
私の代わりになんども苦しみぬき。私の為に切り裂かれ毒におかされ
焼き焦がされ、さらに私を仏にするために修行した仏が阿弥陀如来という。
しかし簡単なことに私はこの世界から助けてと。仏にしてくれると
仏の国に生まれさせてくれると。なんにもしていないのにね
ただ苦しめるだけの自分を救うと後悔はしないと
南無阿弥陀仏 
仏の国に生まれたい、生まれさせてくれる光をくれる。
私の心の中に宿る光を私は信じている。
それでみなに勧める ただ生まれたいと思うだけでよいのだと
仏の国に

2014年4月13日日曜日

諸苦毒中 我行精進 忍終不悔

諸々の苦しみと毒の中、私は行を精進すると、終わるまで耐え忍ぶことを悔いはしない。

この行を行ったのは阿弥陀如来です。私の苦しみと毒を消すために苦しみ、毒の中に落ち

終わるまで後悔はしないと。出来上がったのが南無阿弥陀仏です。

善、非善を問わず、ただ私の罪と罪業と苦しみを憐れんで、次の生は私の国に生まれたいと

欲いなさいと。生まれたいと思ってください、お願いしますと。それだけでよいのですよと。

南無阿弥陀仏。後生の一大事を心にかけてとは、死後の苦しみ、恐怖をみすえてと、一心に

阿弥陀如来に帰命するとは、仏の国に、仏として生まれたいと思うということです。

条件は何もない。ただ生まれたいと思うだけ。生まれたいと思う。そのためには真実から目を

そむけては届かない。恐怖と苦しみは自分の因果によるものであることから逃れられないこと

からくる。悪因は悪果を感じ、善因は善果を感ず、悪人は冥より冥へと。仏門に入ると、この理

より、菩提心を得て、善因を修めなくてはならないのですが、親鸞聖人は一善の行も及びがたき

身なれば、地獄は一定すみかぞかしと言われた。 悪因は悪果を感ずより、善因をおさめようと

したけれども、ひとつの善もできないと、善果を感じられないと、いよいよ御先真っ暗だと

そこでどうしたらよいかと、何もしなくても、何もできない人のために、阿弥陀如来が代わりに

善果もたらす善因をつくり、悪果を感じる悪因を消す行を信じられないくらい長い間、苦しみ抜いて

やっとできた願いは、ただ阿弥陀如来の国に生まれたいと思うだけで救われる。

救ってもらおうかなと、助けてくれるかな、助けてもらいたいなと思うだけで救われる。

疑いのなか、信じられない私のために、非常に低いハードルなんです。信じなくても救ってくれます


助けてほしいと言えなければ、仏の国に生まれたいと思ってくださいと、阿弥陀如来がお願いして

いるのです。向こうからお願いしますと、お願いされている。ありがとうございますとは言えない。

助けてくれるのだろうか、助けてもらおうかなと、一瞬でも思ったら。救いますよと。





2013年9月14日土曜日

そこで、願う

それで、仏は、究極の方法を編み出したのですね。

自分の方から、助けさせてくださいと、常に願いを立てれば、それに叶うものは

救われると。 かの有名な法然上人の、(かの願に叶うが故に)です。


つまりですね、向こうのお願いに叶う。これなんですね。助けさせてくださいに対して

分かりましたよ、負けましたよと、助けさせてあげましょうと私たちが傲慢に

受け入れてもですね、助けてくれるように作ってあるわけです。

逆にですね、助けてくだされといったから、大丈夫とおもっていると怖いのかも

しれませんね。ただね、その前提としてね、法話があるのかなとも思いますね

なして助けてもらわなやいかんのかと、あんた大変な目に逢うよと

信じないだろうけどねと。この話信用する人一人もおらんといっているのは

なにを隠そう阿弥陀如来なんですよと、知ってます、私たちが信用も、受け入れも

しないことも。でも助けたいのです、仏としては。それで向こうの方からですね

助けさせてくださいと、ずっと、ずっとお願いしているのです。ずっと気の

遠くなるような昔から、ずっとです。助けさせてくださいとね。

それを無視すること無量劫年です。ようやく、助かった人はそのことを喜びます。

方法なんてなんでもいいんですよ。怖いからたすけてといえばいい。

いえなかったら、助けさせてくださいという願に仏にしたいという願いに

気がつけば、その慈悲に触れることが肝要です。




易くして人なし

易くして人なしのわけ

なぜカンタンなのに、人が無いなのか、これが一番腹立たしいのでは

ないのですかねと、ちょっと思います。易いというのは簡単なのです

つまり、助けてもらうだけと一瞬思います。心の中で助けてくだされと

いえばそれで終わりなんだと。そうかといってそうとも書いていない

いろいろと難しい理を覚えんといかんとか。いろいろありそうだと

ただカンタンな訳は、怖いからというカンタンな理由で仏にですね

助けてよと、怖い状態だから私は怖いところに行くのが嫌だから

その原因を取り除いてくれるんですから、そうしてくださいと。

自分から言えれば良いんですね。しかしそれが実行する人が一人も

まぁ、たまにいるかもしれないが、ほとんどいない。

なぜならば、自分を良いものだと思って憚りなく、また罪悪もまた

自分でなんとかなると思ってしまうからなんでしょうかね

分かりませんけど、とにかく、仏の力を頼むことをすればいいのですが

なかなか、出来ない、というか絶対にしない、信用しないのです

それを見抜いたセリフがこれなんです。

易くして人なし

つづき4

それでその鬼そのものわたしの魂が常々、何かすると因つまり、種をまくわけです、生死という畑に自分の因をまくわけですよ。鬼の本性を持つ私の魂が因を撒くけっか生る実はすなわち悪果しかないわけですね。 ここが悪人正機という話にもつながってくるわけです。こういう鬼そのものの魂の持ち主の因は悪因しかない、悪因しか存在し得ないわけです。


結局行き着く先は苦しみの世界しかないといわれていますが、その原因を除くには良い魂がいるわけですが、自分の本当の性質、心の性質が鬼なのに、どうやって変えることができましょうか。




結局行き着く先は怖い恐ろしい世界しかないのですが、じつはそれに慣れていまして、それしかないのですから、それが当たり前なんですね。怖い世界に行くと言われれば不安でたまらなくなりますが


自分はそんなに悪くはないと思っているので、悪いことしかできないといわれれば否定するわけです




そして、結局地獄極楽の話は嘘で迷信でアホか精神病患者の戯言になってしまうわけですよ




しかし、現実に自分の性質が悪でしかないので受ける結果は悪果しかありません。


そしてそれを作るのは日常の生活なんです




死ねば悪果を受ける側、いまは作る側というわけです




生とは悪因をつくる世界 死とは悪因を受ける世界となりますね

つづき5

つまり、阿弥陀如来をたのむということが厭離穢土、欣求浄土と生死を抜けたいと思え




これが欲生我国摂取不捨 になるわけです 度衆生 つまり、私を渡してくれる生死のループから




抜け出させてくれる。仏にまでしてくれるわけです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏




さぁ あなたも南無阿弥陀仏




願作佛心と度衆生心と、私

いろいろな事を言う人がいます。何も自分の罪悪を知らなくてもよい、


あるいは、何も分からなくてもよい、ただ任せよとか、または 今、助けてくれるとか

、またもや何かしらああせよ、こうせよはないとか。

 機に執われることを雑修の失と言い、これはこれで煩悩のなせるわざです

それは、自分のことにとらわれることですね、しかし  罪悪感には意味があります。

ここを否定する教義は危険なものなんです。 

修因感果の道理により、死後への恐怖が成り立つことは

、悪因をもち それから逃れられないことから悪業因縁によって悪業果の世界に旅立っていかなくては ならないのですから、

仏説は嘘ではないのですから、要するに信心の条件としての 罪悪感ではなくて

死んだら怖い、死ぬのが怖い原因は何なのか?

 それは、悪業、悪果を招くもの、つまり悪因縁を積み重ねていくしかない

私の 恐怖心の源はなにか?それは自分の心と自性が作り出すものの種、

それの結果を 先に予測できるから、死ぬのが怖いとなる。 

信心を得るということは、

その種を すべて、仏に預け、その結果を引き受けてもらうことであるから、

信心を得れば 怖くなくなってしまう。嫌だけれども、怖くはなくなる。これを安心という。

 要するに何が言いたいのかと言いますと、

死ぬのが怖いのは、自分の作る、

また 作った罪の結果が自分にかえってくることを(感じる)からであって、

それを 見るのが嫌だからと言ってそのままにしておけば、大変な目に遭います。

 だから、阿弥陀佛に、怖いから助けてよ、と言えば助かる。 

南無阿弥陀仏

横超とは、その意味は、

まず、この世界、因縁果の三世因果の世界に真の楽はない、なぜならば、誰かが

楽をすることにおいて、何かしら犠牲を伴わないことはない、

もっとはっきりといえば、楽をすれば苦を伴う。

なにかの形で必ず返ってくる。この世界から出て、仏になるには、途方もない修行が

必要であって、まず無理なのに、それよりも何一つ良いことをすることもできないのに

この世界から出して、この世界にとどまるしかない、自分自身を仏にしてやると

それが私を救うことになる。それで私が自ら求めないのを知っているから、

仏の方から、どうか助けさせてくださいとお願いしているのが、願作佛心です


この世界から出してやりたい、苦しい思いをさせたくないと、この世界から出して

仏にしたいとの思いが度衆生心、渡すという字の右側と同じ、苦から楽へ度す

私の罪を消すだけでなく、まぁなんとすごいものでしょうか。

この阿弥陀如来讃えずにおれますか

南無阿弥陀仏


2012年4月8日日曜日

つづき2

これを端的に表現していると思う説が、衆生、怨

をもって悪をなす、皆これ同じ往生要集で、地獄の

獄卒が衆生に向かって説くところです。

殺したにくい相手だから、その怨念は生きていて

仕返しを必ずしてしまうということになります。

つまり、悲しいことに、私たちはそれが当たり前

なので、そのことさえ気がつかずに、やられたら

やり返すのは当然のことだとすべての人が思って

います。確かに、殺された相手に殺すのをやめ、

一方的に苦を受けるだけで、そのし返しをしなければ

またしようとしなければ、悪因はできないのだと思います。

この残酷極まりない、自分の自性を垣間見て、慈悲の

念など全くない自分をみて、自分の行きつく先は

一体どこなのだろうかと、一体どこから来て、

どこへいくのかとなった時に、私はこの世界から

出して、悪因しか作れない自分のために、代わりに

信じられない長い、長い苦しみの、壮絶な苦しみを絶え

そして、出来上がったものの力によって、私の悪因を

肩代わりしてくれる仏がいる。このどうしようもない

この世界から出してくれる仏がいると。

南無阿弥陀仏というのは、阿弥陀如来の行をたのめと

自分の力ではできないのがわかっているから、

どうか私の力を頼ってくださいと向こうの方からお願い

しますと、無理を承知でお願いしますと頼んでくださって

私のようなもののために、わざわざ苦しんでくださった

仏の力を何もしないでいいからと、私にすべてまかせておくれと

向こうの方から包みとってくださるのが阿弥陀如来です。


南無阿弥陀仏。 まかせるとは、自分のちからでできないことを

ほかの力によってしてもらうということで、そのまかせる中身は

自分のやってきた、行いと、その結果です。

死後少しでも不安のある方は、阿弥陀如来にまかせてみてください。

まかせてみようかなと思い立つ、そのときに救われるのです。


だから、蓮如上人は、南無というは帰命なり。帰命というは、

弥陀を一念たのみまいらするこころなり。

また、発願回向というは、

たのむ機に、やがて大善・大功徳をあたえたまうなり。


その体すなわち南無阿弥陀仏なり

たのむというところは、まかせるということです。

それが南無です。

そして、そのまかせようと思ったときに、

またたく間に、大善、大功徳を与え給うと


その体、すなわち南無阿弥陀仏なりと


南無阿弥陀仏

つづき

衆生とはすべての生きとし生けるものを指すことは

以前から言っているとおりでございまして、私の

姿がただ人の姿をとっているのは、この魂が、人の

肉体を受けた故に人なのです。これが、牛や他の家畜

あるいは、虫やいろいろな生物だとすれば、その姿に

生まれ出てくるわけです。 すなわち、ほかの生物の

姿や行動からも、因縁果が見られるわけですね。

強いものは弱いものを食し、すべて繋がっている。

殺した者は殺され、その繰り返しをする。自分の

殺した相手も、自分で手を汚さないまでも、何がしか

の命を奪わなければ、生きてはいけない。これは

殺因を成さなければならない世界で生きていると

いうことになるのではと自分は思いました。

つまりは、殺された果があったから、今殺すのであって

何気なしに殺生を行っているわけではないということです。

殺果ゆえに殺因を成すということなのです。

死の今際に

人は必ず死にます、そして、死の今際に、もし信心が違い

暗闇に向かわんとなれば、その恐ろしさは言葉では

とても表現できないものとなるでしょう。

厭離穢土、欣求浄土。穢い身体を捨てて、浄らかな

身体を受ける。このようになれば良いのですが、

また多劫を経るというようなことになれば、不幸ですね。

欲生我国、摂取不捨。この穢土を厭い離れ、浄土を欣い求めよ

我が国に生まれたいとおもえ。捨てて離さなさいとあります。 

今の生きている世界を離れて、阿弥陀仏の国に生まれたいと

おもえとあり、その意味をきくことがそのまま、

仏説になります。三世因果の道理しかり、善因善果

悪因悪果の理、衆生の怨をもって悪をなすという言葉しかり

因果輪転して絶えることがなく、常に身に従う。

殺因は殺果であり、悪の自性ガなす因は悪の果を招く。

悪性の衆生どうしで、悪因縁を増やすことがあっても

減ることはありません。常に身から口から意識から

自分の姿を知れば一体何をやっているのだろうかと。

私の受けた話は、往生要集にある一説で、衆生は

怨をもって悪をなし、皆これ同じ。

短い一説ではありますが、核心をついています。